【ラストサムライ】のモデルとなったフランス人『ジュール・ブリュネ』を知っていますか?
映画【ラストサムライ】の主人公、トム・クルーズ演ずる、ネイサン・オールグレン少尉のモデルとなった人物といわれています。
『ジュール・ブリュネ』は、1838年フランス東部のベルフォール生まれ。
陸軍士官学校・砲兵学校を卒業し、陸軍に任官。
メキシコ戦争で戦功を挙げ、第五等レジオンドヌールを受章。
そして、1867年、ナポレオン三世の命により、軍事顧問団の副隊長として、幕府の軍制改革のために、明治維新直前の日本にやってきたのでした。
派遣された軍事顧問団は15名。
『ジュール・ブリュネ』をはじめ、当時のフランスの陸軍の若き俊英を集めたエリート集団でした。
彼らは横浜で幕府「伝習隊」の指導を開始します。
しかし、その年の11月、はやくも大政奉還が行われ、さらに翌1968年、幕府は戊辰戦争に破れ、江戸城は開城。
軍事顧問団には母国により、日本からの退去を命が下ります。
『ジュール・ブリュネ』にとってこれは受け入れがたい命令でした。
彼の部下だった日本人は、すでに不利な状況下で戦う覚悟を決めていて、彼は見捨てることは出来ませんでした。
そして、新政府軍にはイギリス政府が協力していました。
彼の目には、イギリスが「反逆者に協力して日本の正当な政権を覆そうとしている」と映ったようです。
イタリア公使館で、仮装舞踏会が行われた夜、ブリュネはサムライの扮装で参加、そして、顧問団のシャノワーヌ隊長に自らの心境を綴った置手紙のみを残し、フランス軍籍を離脱し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流、函館に向かったのでした。
当初、『ジュール・ブリュネ』は、自分の部下であったカズヌーヴという男性一人のみを従えていくつもりだったようですが、仙台にて、軍事顧問団からさらに3名が加わります。
榎本率いる旧幕府軍は、函館五稜郭にて独立政府、「蝦夷共和国」を樹立。
『ジュール・ブリュネ』らは、軍の編成にあたり、一人一人が一隊を担当しました。
蝦夷共和国軍の組織の名称「列士満(レジマン)」…フランス語で連隊を意味する"regiment"をそのまま当て字にしたものです。
『ジュール・ブリュネ』は、戦闘による死を覚悟する一方で、そのまま北海道で軍を指揮・訓練し、新たな独立国家の礎となることも夢見ていたようですが、時代はそれを許しませんでした。
当初、艦船数8隻を誇り、海上では優位とみなされていた蝦夷共和国軍でしたが、暴風・座礁などで頼みの綱の艦船が失われ、宮古湾海戦では、新政府側の当時の最新鋭鉄甲艦、甲鉄の奪還に失敗。
函館湾海戦に至り全艦喪失。
制海権を完全に失ったことにより、事実上、共和国の運命は決まりました。
士気の高さで、陸戦においての装備・補給・兵員の圧倒的差は埋めることは出来ず、共和国軍は敗戦を重ねてしまいました。
最後の戦闘の直前、榎本は外交的配慮から、『ジュール・ブリュネ』に共和国の離脱を薦めます。
彼はそれを受け入れ、4人のフランス人の部下とともに函館港に停泊していたフランス船「コエトローゴン」に逃れます。
その後、五稜郭は陥落。
榎本らは降服し、蝦夷共和国の夢は潰えたのでした。
時にブリュネ31歳。
本人にとっては屈辱的な体験だったことでしょう。
しかし、自分から言わせると、これ以後に本当にいい話があるのです。
『ジュール・ブリュネ』は、フランスに送還されました。
独断でフランス軍籍を離脱したのですから、軍事裁判にかけられ、断罪されるものと思われていました。
ところが、彼は母国で英雄として、迎えられたのでした。(離脱の際、残してきた手紙が、フランスの新聞に掲載され、多くの市民の共感を呼んでいたためでした。)
ほどなく普仏戦争が勃発し、軍事顧問団の隊長だったシャノワーヌの部下として、軍に復帰が許されます。
その後、彼の上司のシャノワーヌは戦争相に出世。
彼自身もシャノワーヌの基で陸軍参謀総長にまで登りつめるのでした。
1894年の日清戦争では、日本軍の上陸を支援。
シャノワーヌとともに、明治政府により外国人に与えられる最高勲章である、勲二等旭日重光章が与えられています。
この受章には、反逆の罪が許され、明治政府で閣僚となっていた榎本武揚の上奏があったとされています。
さらに、もう一ついい話があります。
明治新政府は、蝦夷共和国で、ブリュネの部下だった4人を当時、大阪にあった兵部省に雇い入れるのでした…。
過去に敵対した人物をも登用する明治政府の度量には驚かされますね。
その後の彼らについての詳しいことは確認できませんが、日本の女性と結婚し、子供をもうけた人物もいるようです。
長文大変失礼しました。
でも、歴史・軍事が好きな方には、勉強になったと思います。