宇宙の仕組みを見てきた男のお喜楽な日常~もっと人生を楽しみたいあなたへ -656ページ目

愛として受け止める☆

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 自分のやり方にこだわろうとする「我」に囚われている人は、自分が人生で経験してきた狭い範囲の中からしか、選択肢を選ぶことは出来ませんので、常に難しい決断に迫られることになります。

一方、人の意見に素直に耳を傾けられる人は、他人が経験を通して学んだことまで自分の選択肢に入れられるので、選択肢が広がってより大きな視点から物事を判断することが出来ます。

 不思議なもので、上手くいっていない人ほど自分のやり方にこだわる傾向がありますが、自分のやり方が、今の不幸な現実を招いているという事実をしっかりと受け止めて、上手くいっている人のまねをしようという素直な気持ちさえもつことが出来れば、全ては好転するものです。

 人と人とのコミニケーションは、言葉を変えれば思いのキャッチボールともいえます。

コミュニケーションの中から大きな成果を受け取ろうとするには、球を投げる方の意志は勿論ですが、受けとる方の意志がより重要になってきます。

 相手がせっかく愛の一杯詰まった球を投げてきてくれても、受け取る側が悪意として受け取ってしまえば、その球は悪意になってしまいます。

逆に相手が悪意の詰まった球を投げてきても、受け取る時に
「この人は私を育てるために、あえて苦言を呈してくれているんだ」
と、愛の球として受け取ってしまえば、それはあなたにとって紛れもなく愛のメッセージになります。

 所詮普通の人は超能力者じゃないのですから、相手が本当はどんな気持ちでその球を投げているのかを、正確に知ることは出来ません。

みんな憶測で判断しているに過ぎません。

 それなら自分に与えられたアドバイスやご指摘は、勝手に愛として受け止めてしまえばいいのです。

 この逆のことは、ついついやってしまいがちですよね(笑)
(何気ない他人の言動を悪意ととらえてしまうことから、多くのトラブルが起こってきます)
だったら、これも意識すれば誰にでも簡単に出来るはずです。

 それに、相手が何を考えているのかを思いわずらっているよりも、全てを愛として受け止めてしまう方がよっぽど簡単で気が楽です。

 
 あなたが愛として受け取ることが上手くなったとき、本当にあなたの周りには愛しか見えなくなります。

 この世界はもともと神様の愛と光で出来ているのですから・・・☆





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善悪の果実 ☆

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旧約聖書に出てくるアダムとイブの物語。
(ちなみに僕は無宗教ですが、世界中の宗教書の中には素晴らしい真理が、たとえ話や暗号のような形でちりばめられているので参考にさせて頂いています。)

アダムとイブは神様が創ったエデンの園という楽園で幸せに暮らしていました。

そこは気候も常に温暖で、裸でも快適に暮らすことができるほどでしたし、食べ物も豊富にあり、無限の豊かさに満たされて何不自由無く2人は暮らしていました。

ところが神様から唯一禁じられていたある木の果実を食べてしまったが為に、2人は楽園から転落してしまいます。

これが有名な失楽園の物語です。

キリスト教ではこれを原罪と呼び、人間は神の言い付けを破ったが為に楽園を追放されて苦しんでいるのだと教えられています。

この解釈を信じていらっしゃる方は、もちろんそのまま信じていて下されば結構です。

これから書くことはあくまでも私の体験ですから、信じても信じなくても構いません。

私の内なる世界から届いた答えによると、私達は今も変わらずエデンの園にいるとの事です。

神はアダムとイブを楽園から追放した事は無く、ただアダムとイブが食べてしまった果実の作用で、私達は楽園から出てしまったと錯覚しているのです。

アダムとイブが食べた果実の名前をご存知ですか?

その名は「善悪の木の実」。

この実を食べてしまった2人は、物事を善いものと悪いものに分けて見るようになってしまったのです。

それまでは神から与えられるもの全てに感謝しながら、喜びに満ちて生きていた2人が、善悪の木の実を食べる事によって選り好みを始めたのです。(哲学的に言うと、一元論から二元論に意識が変わった)

何かを善いものとしてこだわりや愛着を持つという事は、裏を返せばそれ以外のものを嫌いになるという事です。

例えば暖かい場所に愛着を持つと同時に、寒い場所は嫌いになります。

ある条件を満せたら幸福と決めた瞬間、その条件が満たされない時は不幸を感じるようになるのです。

2人は変わらず楽園の豊かさに囲まれているにもかかわらず、選り好みを始めたが為に幸福を感じなくなってしまったのです。


私たちは無始の過去から現在に至るまで、変わらず神の楽園に生きています。

もしあまり幸福を感じられないという方がいらっしゃいましたら、すぐに「善悪の木の実」を吐き出す事をお薦めします。

今日は特別サービスで、簡単に「善悪の木の実」吐き出すための呪文をお教えしましょう。


「ありがとうございます。全ては神の御心のままで完全です。
全てはうまくいっています。」


(神という言葉に抵抗のある方は大宇宙、大自然、ハイヤーセルフなどお好みの言葉を使って下さい。)


天に星、地に花、人に愛・・・。

こんなに素晴らしい楽園に生かされている事に感謝しています。

ありがとうございます・・・・☆



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 よくお堅い宗教の本や精神世界の本を読んでいると、「自己犠牲」という言葉が頻繁に出てきます。

僕はこの言葉があまり好きではありません。


 自己犠牲という言葉には、「自分を殺して人を活かす」という意味があり、昔から美しい行いの代表のようにいわれています。

そのため、真面目に道を求める求道者ほど、自らに我慢を強いてまで、人に尽くそうとします。

周囲の人も、そんな人を「いい人」だと賞賛します。

 しかし、何故かそんな「いい人」には、不幸な出来事が多いのです。

「あんなにいい人が何故あんな目に・・・」

なんて話はよく聞きますよね。

 その原因は、「自己犠牲」という言葉から生ずる誤解にあるのではないかと、僕は思っています。


 例えば、自己犠牲の代表のようにいわれているマザーテレサですが、本当に彼女は自分を犠牲にしていたのでしょうか?

僕にはむしろ、彼女の場合

「それが喜びだったからそうせずにいられなかった」

といった方が正確のような気がします。


 人は魂が成長し、心が豊かになっていくにつれて、人を喜ばせることに快感を覚えるようになっていきます。

自己と他人の分離意識が弱まり、ワンネスに近づくにつれて、人の喜びを我が喜びとして感じられるようになるからです。

そうなると、今までは自分のことしか喜べなかったのが、周囲の人のことまで喜べるようになるので、喜びは100倍にも1000倍にも増えていきます。

 そんな人たちはまさに、人の喜びを食べて生きているようなものです。


 犠牲という言葉には、我慢、苦しみといったネガティヴな響きがあります。

我慢から始めたことは更なる我慢を、苦しみから始めたことは更なる苦しみを引き寄せてしまいます。

 人の喜びを我が喜びとして、相手も喜び、自分も喜べる道を歩むとき、そこに犠牲者は誰もいません。

喜びは更なる喜びを引き寄せ、止むことのない喜びの連鎖が始まります。
 
 
 まわりくどくなりましたが、人に喜ばれるように生きることは、犠牲でも苦行でもなく、最高のレジャーといってもいいほど楽しい道です。

 明日も人の喜びを食べながら、楽しく生きていきましょう!!
 





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