私は三重県鈴鹿市白子町の生まれです。白子は伊勢型紙、家康が白子の港から岡崎に逃げ帰ったことより、幕府直轄地になったこと以外、難破船でロシアに漂流し10年後に日本に帰された大黒屋光太夫の出身地として知られています。私は、伊勢若松に石碑や記念館があることは知っていましたが、白子に住んでいた時に、詳しく知ろうとは全く思っていませんでした。

 今回、家内が読んでいた井上 靖の「おろしあ国酔夢譚」を借りて一気に読みました。

 紀州藩の囲米を江戸に運ぶ神昌丸船船頭だった光太夫ら17名は駿河沖で暴風雨に遭遇し、マストも折れて、7か月黒潮に流されて、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着、毛皮を商うロシア人とともに、迎えの船を待っていたが、その船も難破し、残骸と流木から船をつくり、ロシア人とともに、カムチャッカ半島に上陸、そこから陸路でオホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクに到着、その間に10人が亡くなり、そこで、博物学者のキリル・ラクスマンと出会い、彼の勧めで3度目の帰国願を出すとともに、エカチェリーナⅡ世に拝謁するために、夏の離宮ツァールスコア・セローのエカチエリーナ宮殿迄行き、エカチェリーナⅡ世から帰国を許された。光太夫らが、ロシアに難破する前にも多くの漂流日本人がおり、彼らは今後の、日本との貿易の為、日本語教師として、ロシアに滞在し、ロシア人と結婚し、その子供が日本語学校の教師になっていた。帰国にあたり、日本との交易のため、ラクスマンの息子のアダム・ラクスマンが全権大使となり、根室に着き(1792)、松前藩と交渉し、函館まで、海路で行き、そこで、初めて日本の土を踏む、足掛け10年のロシアで生き残った5人のうち、二人はロシア正教に改宗し、ロシア人になったため、帰国できず、日本語教師なった。日本に帰国できたのはわずか3名で、そのうち1名(小市)は壊血病で上陸前に亡くなり、日本に帰り着いたのは光太夫と磯吉のわずか二人だけだった。帰国後は江戸に詰めて、将軍家斉らにロシアの話をした。二人の話から日本の樺太や千島列島の国防が幕府の中で高まった。日本が開国するのはラクスマン来航から76年後の1868年兵庫開港までかかります。この間にもう少し、準備をすれば、日本の歴史も変わっていたかもしれません。