2000年11月に名古屋駅に総合上飯田第一病院の分院として名古屋駅松坂屋の医療フロアにセントラルアイクリニックを立ち上げました。これは個人の開業ではなく、あくまでも愛生会の分院として屈折矯正センターとしてLASIKを中心とする屈折矯正をメインにするクリニックでした。その時、私は総合上飯田第一病院眼科部長、愛生会 理事として立ち上げに関与しました。
当時、総合上飯田第一病院眼科は常勤医8名、非常勤医6名の大所帯で、硝子体手術、白内障手術、緑内障手術など、あらゆる手術を日本全国からその疾患のスペシャリストを招聘して手術をするという画期的なやりかたでした。
今のようにYou tubeで手術ビデオを見て手術を勉強できる状況ではなく、ほとんどが、自分の大学で全てを教える時代でした。
ですから手術を覚えるために、いろいろな大学から研修医が入り、大学の医局とは全く雰囲気の異なる病院でした。医局員は北は弘前大学、南は熊本大学など、いろいろなところの人間が集まり、医学上の言語が違う。同じ言葉で異なる意味をもっていることが多く、梁山泊のような感じでした。また、手術見学も毎日のようにあり、スペシャリストの手術が見れ、学会の演題は年間20を超す演題をだし、論文も多数だすことができました。
そのような状況でしたので、私の専門の屈折調節を生かすために、名古屋駅に分院を出したいという要望も通りました。
ではなぜ、そんな待遇のいいところを辞めて開業したか?
そのころ、銀行は景気の悪化から、貸しはがしの時代でした。
それまで、お金を借りてくれと言っていたのが、急にお金を返して欲しいに代わりました。3年で黒字にするという計画で、そのとうりに動いていたのですが、実際に3年目は黒字になるというデータを見せても、2年間赤字で、3年目黒字になる保証はないとしてその当時の東海銀行は名古屋駅のセントラルアイクリニックを閉鎖しないと、本院のお金も返してもらうとの脅しで、病院側は私に本院に専念し、分院を閉じるという決定になりました。抵抗しましたが、それであれば、分院を買い取ってくれということになり、泣く泣く、清水の舞台から飛び降りるつもりで2002年の4月から個人クリニックとしてのセントラルアイクリニックに代わりました。順調に4月から黒字で、3年目に医療法人になりました。
あっという間の22年でしたが、心残りはこれまでやっていた網膜硝子体手術を独立の時からやめてしまったことです。
やはり、硝子体手術をやりたいというのが今の希望です。
それがようやくかなえられそうです。8月から当院でも硝子体手術を始めます。