落語の高座のようなプロセニアムのない演劇空間は、ボードビリアンのステージの物理的な構造でもある。
しかしざっくり言ってしまえば、
落語の場合は、上手下手の登場人物を一人芸で対話させる物語という非現実の世界と落語家の観客への話しかけという現実の世界が渾然一体になっているのに対して、
ボードビリアンの話芸は観客へのトークというすべてが現実の世界だと言える。
歌舞伎にしても旅周り一座の芝居にしても、舞台上の非現実の世界と、役者と観客の交流という現実の世界とが渾然一体になっていて、同じ時空の構造を日本的なプロセニアムのない演劇空間の特徴として指摘できる。
私は、こうい思いにかられてしまった。
それは、今現在の私たちにとって、
福島第一原発とそれをとりまく日本各地は、プロセニアムのない演劇空間になっているのではないか、
という思いだ。
福一で起こっていることはまがいない現実なのだが、原発や放射性物質という物理的な事情と情報開示の不全とによって、ある種、言説化→物語化→演劇化している。
一方、たとえば東京ではホットスポットの存在が不安を呼び起こしながらも、人々は3.11以前とほど同様の生活を送っている。これもまがいない現実なのだが、やはりある種の物語なり言説の上で成立している。とすれば演劇的に生活しているとも言える。
福一と東京の関係は、プロセニアムのない舞台と観客席の関係に重なるように思える。
舞台の危険が現実とすれば、観客席の安全は非現実であり、
観客席の安全が現実とすれば、舞台の危険はあたかも非現実かのようだ。
これは、現実の世界と非現実の世界が渾然一体になっているということであり、日本的なプロセニアムのない演劇空間の現象と様相的に一致する。
いま、福一と東京の関係で捉えたことは、福一と福島や避難した住民の帰還を進める自治体との関係でも言える。
日本人の原発事故への対応がまったく理解できないでいる外国人は多い。
そして、同じ日本人でも他者の対応にまさかと思うことがある。
そうしたことには、この日本的なプロセニアムのない演劇空間の現象と、主体がどの程度切迫した劇場性の中にいるかということが関わっているように思う。
避難先から帰還する住民の場合は、もはや観客席の観客ではなく、手品師によって舞台に上げられた観客代表になるの観もある。
また、ガレキの広域処理によって万一、放射能汚染が全国化するとすれば、日本全土が舞台になってしまい、誰もがただの観客では居られなくなるということだ。
いまや、日本と日本人の空間軸と時間軸は大きく揺さぶられていて、精神的な変化を本質とする「結界性」=「通過儀礼」も大いに流動的になっていると言えよう。