私は、文化の多様性とその協働を尊重する文化的国粋主義者だが、日本のアメリカ化を懸念はしない。日本人の生活文化はそんなヤワなものではないことと、概念的にはアメリカ化の完成形はアメリカの1州になることだからだ。
仮にそうなれば、アメリカ国内同様、住宅隣の普天間基地は認められないし、地位協定もない。
アメリカの狙いは搾取できる他国で日本をいさせることで、属国化をゴールとする日本のアメリカ化なんかじゃない。

正しくは、傀儡奴隷国化。
アメリカの戦後日本に対する大義と本音、
それは日本が満州国を打ち立てた大義と本音に重なる。
ともに軍産複合体が誘導。

いまや日本を守るにしても、非汚染海域の漁業と資源の絡む領土紛争しかアメリカの出番はない。明らかに日本はアメリカの世界の警察官活動の、お金も差し出すお手伝いさん化。
そしてアメリカの大企業連合が推し進める日本狙いのTPP、アメリカの議員の間でも話題になってないのに日本の政官財報談合が買弁的に進める。
満州国と戦後日本の違いは、アメリカの方が比較にならないほどやり方が着実で巧妙だったことだと思う。
そして、その完成仕上げが原発事故を契機に果たされようとしている。
「イラスト・図説でよくわかる 江戸の用語辞典 時代小説のお供に」
 江戸人文研究会編 廣済堂出版刊 発

*今回は「[こ]から始まる言葉」についてのメモの続きでございます。


◯[小袖幕]こそでまく

◯[御注進]ごちゅうしん

◯[御法度]ごはっと

◯[骨法]こっぽう

◯[言霊]ことだま

◯[五人組]ごにんぐみ

◯[古筆見]こひつみ

◯[呉服屋]ごふくや

◯[小普請組]こぶしんぐみ

◯[小股]こまた

◯[護摩の灰]ごまのはい

◯[暦]こよみ

◯[蠱惑性]こわくせい


*次回は「[さ]から始まる言葉」のメモでございます。



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人材育成や知識創造の方法論を構想したり実践したりする立場にあるナレッジワーカーには、視野広く長期的展望をもって今こそ知恵を絞るべく、自分とは異なる考えを抱く異なる立場のナレッジワーカーと積極的に対話して欲しい。

でないと、日本社会というタイタニック号が傾きかけている時に、いつも通り何も起こってないかのように、料理長が次にどんなメニューを出すかを、楽団長が次にどんな楽曲を演奏するかを考え続けているのと同じになる。
視野広い楽団長ならホールの木材を集めて筏を沢山つくるだろう。
長期的展望もった料理長なら漂流しても食いつなげる携帯食を沢山つくるだろう。

無論、人材育成や知識創造の方法論を構想して実践する立場にあるナレッジワーカーの場合、タイタニック号の傾きを戻したり沈没させない方向に、その職能を通じて舵を切ることができるし、それこそが智を生業とする者の使命の筈だ。

そのためには是非、
自分でなくてもできる既存パラダイムの活動ではなくて、
自分でなければできない新規パラダイムの創出に果敢に挑戦して欲しい。
その際、
個人の目先の利益や保身やつまらぬプライドを捨てて一人の市民として、
立場や専門や国籍を超えて大胆な仮説を交わし合って協働していきたいものだ。

人材を生かしたり、対話を促して知識を創造する、
もしそういう生業に長けた人たちがそうしないならば、
誰も発想思考を飛躍させることはなく、
傾きかけたタイタニック号は間違いなく沈む。
そのことについては、他力本願な楽観主義者をふくめ
誰もが同意するのではなかろうか。
落語の高座のようなプロセニアムのない演劇空間は、ボードビリアンのステージの物理的な構造でもある。
しかしざっくり言ってしまえば、
落語の場合は、上手下手の登場人物を一人芸で対話させる物語という非現実の世界と落語家の観客への話しかけという現実の世界が渾然一体になっているのに対して、
ボードビリアンの話芸は観客へのトークというすべてが現実の世界だと言える。

歌舞伎にしても旅周り一座の芝居にしても、舞台上の非現実の世界と、役者と観客の交流という現実の世界とが渾然一体になっていて、同じ時空の構造を日本的なプロセニアムのない演劇空間の特徴として指摘できる。

私は、こうい思いにかられてしまった。
それは、今現在の私たちにとって、
福島第一原発とそれをとりまく日本各地は、プロセニアムのない演劇空間になっているのではないか、
という思いだ。

福一で起こっていることはまがいない現実なのだが、原発や放射性物質という物理的な事情と情報開示の不全とによって、ある種、言説化→物語化→演劇化している。
一方、たとえば東京ではホットスポットの存在が不安を呼び起こしながらも、人々は3.11以前とほど同様の生活を送っている。これもまがいない現実なのだが、やはりある種の物語なり言説の上で成立している。とすれば演劇的に生活しているとも言える。

福一と東京の関係は、プロセニアムのない舞台と観客席の関係に重なるように思える。
舞台の危険が現実とすれば、観客席の安全は非現実であり、
観客席の安全が現実とすれば、舞台の危険はあたかも非現実かのようだ。
これは、現実の世界と非現実の世界が渾然一体になっているということであり、日本的なプロセニアムのない演劇空間の現象と様相的に一致する。

いま、福一と東京の関係で捉えたことは、福一と福島や避難した住民の帰還を進める自治体との関係でも言える。

日本人の原発事故への対応がまったく理解できないでいる外国人は多い。
そして、同じ日本人でも他者の対応にまさかと思うことがある。

そうしたことには、この日本的なプロセニアムのない演劇空間の現象と、主体がどの程度切迫した劇場性の中にいるかということが関わっているように思う。

避難先から帰還する住民の場合は、もはや観客席の観客ではなく、手品師によって舞台に上げられた観客代表になるの観もある。
また、ガレキの広域処理によって万一、放射能汚染が全国化するとすれば、日本全土が舞台になってしまい、誰もがただの観客では居られなくなるということだ。

いまや、日本と日本人の空間軸と時間軸は大きく揺さぶられていて、精神的な変化を本質とする「結界性」=「通過儀礼」も大いに流動的になっていると言えよう。