形がある。私っていう、くっきりとした形がある。
関心を示されることで、否が応でも話すことで、笑うことで、教えられることで、生きていたものを触ることで、命あるものに触れることで、大きい声を出すことで、次から次へとやるべきことが運ばれてくることで、からかわれることで、言い争いをすることで、短気に切れることで、文句を言い合うことで、ふざけることで。
私の周りの空気の濃度がどんどん高くなっていって、気圧を受けながら私の輪郭ははっきりとしていく。
生きていることの現実感をものすごく感じる。
ゆるくなっていく。何かのマジックで服だけ残って身体が消えてしまうように、私の存在も空気との境がなくなっていくような感覚になる。
渋谷の雑踏の中を歩いているとき、汐留の高層ビルを下から見上げるとき、そのビルの中を通るエレベーターの動きを目で追っているとき、竹芝の夜景を見ているとき、日比谷通りを歩いているとき、鎌倉の海沿いを歩いているとき、自由が丘の遊歩道で一服しているとき、部屋のベッドの上で本を読んでいるとき、えんの帰り道、飲んだあとの道、誰かと一対一で話しているとき、働きながらふと意識を一歩引いたとき。
たった一人の人をいつも思い出しながら、私はあっという間に輪郭を失って砂みたいになってどこへでも散っていける。でもそういうときに、いろんな人が頑張っていることがとても愛しく思えたり応援したくなったりする。そういう人が集まってるこの場所も好きになる。そんな場所に偶然に今ここでめぐり合わせた幸運と儚さの中に溶けてしまいたくなる。周りに人のいないときは、空を見て、そのまま膝をついて地面に静かにうずまってしまいたくなる。輪郭を失った私の心は、一体どこに宿っているのか分からないけども穏やかだ。そして少しだけ泣きたくなる。今死んじゃってもいいやって思う。現実感を感じていた世界が、ものすごく遠くのことに思える。大切でなくしたくなかったはずのことが、他愛のないことになってくる。
どちらにしても、孤独であるってことに変わりはないけども。
私は孤独感をできるだけ強くそばに置いておく為に一人でいろんなところに行く。
京都に行ってパリに行って六本木ヒルズに行って、人間が作ったあらゆるものを見てその力を感じて、とても自分がそのどんなものにも相容れない孤独な存在だってことを何度も感じては泣きたい気分になって、そしてまた明日生きようと思う。そんな孤独な自分をあっちこっちに置いてきて、いっぱいいる孤独な自分の記憶で私はなんとか私の形を保ってる。
泣きたい気持ちになるのは、ただ孤独だって感じるからじゃない。思う人がいるからだ。どうしてるんだろうって思うことがあまりに日常になりすぎて、そう思うことが私が存在するための大事な足場になってるのかもしれない。だけどなかなか会えないどころか顔をうまく思い出すことすらできない。本当に彼がいたのかさえ分からなくなってる。そんな大事な人だったかなんて見当もつかないくらいだよ。そんな不安定さに、余計に私の存在が危うくなって孤独感が増すんだ。そんなあるのかないのか分からない存在なのに、私の身体の中では完全にあることになっていて重心がそこにある。だから、その重心に疑いの目をかけた途端に私なんてなくなっちゃってもおかしくないよね。
それでも私は人を求める。携帯の電源切りっぱなしにしてても、どんなに斜に構えてるって言われようとも、実際そういうふうに振舞っていようとも、誰かを求めたくて求められたい。でも、どうしてだろう。実際に求められると、嫌悪感だけが先にたつ。受け入れようっていう気持ちはほとんど湧いてこない。面倒くさいだけで、近づいて欲しくなくて、気持ち悪いと思う。話しかけないで。メールなんて送ってこないで。触らないで。知ろうとしないで。一度そう思ったら、もうあとはどうでもいいとしか思えなくなる。
私は、そういうふうにしか生きていけない。今のところ。