おはようございます。今日は10時出社なので、牛乳を飲みながら、このブログを書いています。このあいだ、ひとと話す機会があって、そういえば、自分軸ということばを、自分は気に入って使っているなあと思いました。ただ、このことばを使うようになったのは、ごく最近ですね。それまでは、自分なんてもんは定義できないものというかね、精神分析流に考えたり、無我なんて思って、自分自身から「逸れてしまって」いました。


でも、ここへきて、ああ、結局は「エゴストレングス」の問題だよな、と思うようになりました。それは自分というもの、まあ、エゴは自己の仮代表みたいなもんですが、それでも、そこに自分の意識を集めていくこと。フロイトは「エスあるところに、エゴあらしめよ」という、名言を残しましたが、その意味がほんのりわかってきた、沁みてきました。エスあるところにエゴあらしめるには、自分軸から逸れない、まあ、いつも逸れないっていうと大変だけど、そこが重要になる。


そこでコフートな訳ですが、これはユングにも共通して言えることかもしれませんが、西欧流の考え方だと、エゴ、自我を深めていって、ようやく、自己、セルフに至るのだと。だから、苦しむのですね。でも、この強さ、ひたむきさ、したたかさというものは、長らく東洋が向き合って来なかったことではないか、と、まあ、河合隼雄先生などは仰ったんですね。


東洋流だと、すぐに本質と直結しようとする。それは、ある意味では弱さの美学のようなものです。儚さというかね。でも、一方で、そうした生き方に欺瞞を感じて、今度はムリにマッチョになろうとする。でも、それはエゴストレングスの鍛練とか、そうしたものとは別物なのだということに、ここのところ気づいてきましたね。


 

 

こんにちは。このブログ、だいぶ放置していたというか、書くべきことは書いたつもりでいたのですが、そこからまた、じわじわとなにか、書こうかとも思いまして、ほんと、放置してましたね……。さいきん、YouTubeを観ていて、93歳の牧師の方がやられている「ルンルンおじいちゃんねる」というのを、たまにみていて、こう、考えさせられたんですね、人間の信仰心なるものを。なんというか、私は、特定の宗教宗派に信仰はもっていないのですが、信仰というものを、それなりに外部から考えてみると、どういうことが言えるのかなと思うんですね。

 

 

で、一次的な信仰というのは、どちらかというと外面的信仰というか、倫理的信仰というか、善行を重ねればいいことがある、神や仏の祝福がある、というやつですね。仏教でも「諸悪莫作 衆善奉行」といって、善きことをなして、悪いことはするなと。そこまではいいんですよ、でも、人間にはスケベ心がありますから、それがいつの間にか、いいことすると、いいことが返ってきまっせとなる。これに留まるのは、まあ、一次的な(でも大切な)信仰の基盤かと。

 

 

で、二次的な信仰というのは、どういうものかというと、それは内面的な信仰なんですね。自分の弱さ、小ささ、無力さというものに徹底して気づく。そこから来る「帰依(南無)」であり「祈り」というもの。これが一次的信仰を経た、二次的な信仰でしょう。で、人間はまたスケベ心が出ますから、一次的信仰を経ないで、こっちの方が「本物だ」とくる。

 

 

実際はこの一次⇔二次への、揺れ動きというか、それらがミルフィーユのように重なっているのが、厚みのある、信仰なのではないかという風に、今の私は思いますね。禅でいうと「漸悟」と「頓悟」の問題がそうで、どっちがよくてどっちが悪いとなると、そういうもんじゃなし、どっちもあるのだ、ということで、信仰なり、悟りなりというものは、妙に純粋化すると、それはその本質から離れてしまうように思いますね。だからといって、すぐにカオス、って言いだすの、それもまた人間の「スケベ心」ですから。

 

 

 

 

こんにちは。皆さん、自粛生活、そろそろ終わりという方も、いやまだまだという方もいらっしゃるかと思います。私は6月に入ると、出勤日も増えて、まあ、ほぼほぼ通常通りになっていくと思います。この自粛期間、いろいろと考えもしました。一つ思っていたのは、どうも、自分らしさというものを目指していくと、カオスになるらしい、ということ。仏教からちょっと、インド哲学、非二元のところからちょっと、老荘からちょっと、ユングからちょっと。そいつを大鍋でことことと煮込んでいるというか。なんなのだろうな、この、煮え切らなさは、と。ある意味ハマりかけていたわけですね。

 

 

でも、一つ、こうして思ったのは、この、カオスというか、半端なところが、私らしさかな、ということ。もう一歩踏み込んでいうと、本来は、宗教なり思想ってやつは、本質的には、ですよ、本質的には誰か特定の個人の、パーソナリティにすぽっとハマるようには、出来ていない。そこは皆さん、ワガママというか、そこを抑えて、なんとかはめ込んでいるようにも思えますね。で、はめ込んでしばらく経つと、どうやらそれに対して、無感覚になっていく、そうしたことが起きて来るように思います。

 

 

だから、私らしくっていうのは、反面、バカになることです。そう言ってしまうと、もう、あまりにあからさまなのですが、バカになるというのは、余計なものをそぎ落としていく過程でもあります。そしてそのうえで、思想なり宗教なり、自分の気になったところを、ある意味まっさらな心でみていく訳です。で、そこで肝心なことは「ちょっとこれは違うかな」「これは窮屈だな」「違和感があるな」と思ったら、今はいいかもしれませんが、いずれそこから離れる時が来ます。直感、というものですね、この力は大きいです。

 

 

人がこう言ったから、偉い人が言ったから、それで自らもそうしている。それもある程度までは、いいと思います。が、最後には己の心に聞いてみる。それで、一途になれない、とか、私のようにカオスになってしまうとか。それを責める人もいるでしょうが、正直言って、その人はあなたではないのですから、己の声に正直になる、これが一番だと思います。なんだか、まとまりませんが……こんな話も、たまには良いかとも。