おはようございます。今日は10時出社なので、牛乳を飲みながら、このブログを書いています。このあいだ、ひとと話す機会があって、そういえば、自分軸ということばを、自分は気に入って使っているなあと思いました。ただ、このことばを使うようになったのは、ごく最近ですね。それまでは、自分なんてもんは定義できないものというかね、精神分析流に考えたり、無我なんて思って、自分自身から「逸れてしまって」いました。


でも、ここへきて、ああ、結局は「エゴストレングス」の問題だよな、と思うようになりました。それは自分というもの、まあ、エゴは自己の仮代表みたいなもんですが、それでも、そこに自分の意識を集めていくこと。フロイトは「エスあるところに、エゴあらしめよ」という、名言を残しましたが、その意味がほんのりわかってきた、沁みてきました。エスあるところにエゴあらしめるには、自分軸から逸れない、まあ、いつも逸れないっていうと大変だけど、そこが重要になる。


そこでコフートな訳ですが、これはユングにも共通して言えることかもしれませんが、西欧流の考え方だと、エゴ、自我を深めていって、ようやく、自己、セルフに至るのだと。だから、苦しむのですね。でも、この強さ、ひたむきさ、したたかさというものは、長らく東洋が向き合って来なかったことではないか、と、まあ、河合隼雄先生などは仰ったんですね。


東洋流だと、すぐに本質と直結しようとする。それは、ある意味では弱さの美学のようなものです。儚さというかね。でも、一方で、そうした生き方に欺瞞を感じて、今度はムリにマッチョになろうとする。でも、それはエゴストレングスの鍛練とか、そうしたものとは別物なのだということに、ここのところ気づいてきましたね。