華南お手軽旅行 1990年

5 大澳

 

 寶蓮禅寺の朝食はお粥であった。食後、宿坊をチェックアウトして、ランタオ島の西端、水上集落が残る大澳へと歩きで向かう。バス停にも、バスがなかなか来ないときは歩くとよいという趣旨の掲示がある。直線距離で5キロメートルほどだから、さして離れてはいない。

 歩きはじめるとすぐに寺のワゴン車が追い抜いて行った。ハッチバックドアに「南無阿弥陀仏」と書いてある。このあたりの感覚は日本とは違う。

 

 

 途中で三角点のある展望所に立ち寄る。道の左右は草地で、牛のフンがたくさん落ちている。牛自体は見当たらないけれども、牛に注意の標識も立っている。香港人だって牛乳くらい飲むだろうし、このあたりが香港の酪農地帯なのかもしれない。

 

 

 大澳が近づくと広大な塩田が広がっている。もっとも既に塩は作っていないようで、ただの薄汚い水たまりでしかない。

 バスターミナルいなっている広場から路地を回り込むと、幅20メートルほどのクリークに出る。橋はなく、渡船で対岸へと渡る。

 

 

 

 

 渡船といってもワイヤロープを伝って行き来する艀である。動力は「二人のおばちゃんたち」、つまり人力だおばちゃんたちは手に黒い布切れを持ち、そろいの編み笠にそろいの着物で小さな腰掛に座っている。足元にはポットとみかん。お客が多かろうが少なかろうが、絶え間なしに行ったり来たりしているのだった。

 

 

 

 

 対岸に渡ると、桟橋は市場街という長さ40メートルほどの短い通りに続いている。その先はもう山が迫っているから、人家が増えたら水上に進出するしかないわけだ。この市場街の周辺には、輸入物ばかりの果物屋、香港上海外匯銀行、関帝廟とひととおりの施設が揃っている。

 

 

 

 

 吉慶街、吉慶後街と名付けられた二筋の「メインストリート」を右手へ行く。道の狭さや曲がり具合が、瀬戸内海あたりの島にある漁村と似たような感じだ。しばらく行くと眺めが開けて、川べりに出た。ちょうど干潮の時刻で、露出したヘドロが臭い。

 道は手作り感あふれる橋に続く。頭上には新基大橋と書かれた板が打ち付けられていて、1979年に架けられたとも書かれていた。橋の先は二股に分かれていて、右手の方は水上家屋が密集した島につながっている。板を打ち付けた通路は、どこまでが「公道」でどこからが家の敷地なのか判然としない。ただ、橋のたもとに40件ぶんの郵便受けがまとめて作られていたから、そこから先へは入らない方がよさそうだ。

 

 

 

 

 一方、橋から左へ行くと新基街という通り名こそついているものの、並んでいるのはガラクタで作ったような家の寄せ集めに過ぎない。部屋の中はまる見えで、大人たちはトランプや麻雀にうつつを抜かし、ゴミだらけの土間では老婆が果物を握ったまま昼寝をしている。

 

 

 

 吉慶後街に戻り、先へ進む。やがて家並みが尽きて楊侯古廟の前へ出た。廟の中では木片をふたつ投げて裏表で吉凶を占っていた。

 

 

 

 

 街なかには土地公やら土地爺やらの廟がたくさんあり、それらを眺めながら中心部へ戻る。ちょうど学校の下校時刻らしく、制服のワンピースを着た女の子たちとすれ違う。小学生は青、中学生は茶色のチェック模様で、なぜか男の子には出会わない。

 街の反対側には消防分署があり、オート三輪級の小さなポンプ車が車庫に納まっていた。消防車が入れないことを理由に再開発や道路拡幅を進める国もあるけれど、ここ大澳の魅力が失われることはないだろう。

 

[華南お手軽旅行 おわり]

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