地図から始まる旅 ウクライナ 2018年

10 寝台列車オデッサ号

 

 カーメネツ・ポドリスキー最後の夕飯は新市街で食べようと思う。新市街には南北に貫く大通りに面して大きな市場がある。しかし、既に営業は終了している。

 市場前の広々とした通りには真ん中に遊歩道があって、間口3メートルほどの花屋が背中合わせにずらりと連なっている。数えてみたら片側だけで23軒もある。こんなに花を買う人がいるのか?こんなに店があってやっていけるのか?商売になるからあるのだろうが。

 花屋はたくさんあっても食べ物屋はごく少ない。イタリア料理の店に入り、ピザを注文する。ゲームセンターを併設しているような店だからあまり期待していなかったけれども、ここのピザは極上であった。プロシュートなどの材料が良いのであろう。

 

 この街からはオデッサに向かう。チェルニフツィ始発の夜行バスが経由しているのをインターネットで予約してある。市場に隣接したバスターミナルに歩いてゆき、リボフでの経験からまず切符売り場で印刷した予約表を提示する。係のおばさんは、しばらくコンピューターを操作してから「直接バスへ行け」と言う。

 ターミナルビルの外観は殺風景なことこの上ない。内部はドラッグストアのような店が占拠していて、待合室もなければトイレの表示も見当たらない。トイレを探しておもてをウロウロしていたら、切符売場に座っていたおばさん係員が来て、オデッサ行きがキャンセルになったと言う。

 他のバスを乗り継いでいくのも不可能なようで、列車で行くしかないらしい。列車があることは知っていたけれども、深夜に乗り換えが必要な上に、オデッサ到着が翌日の昼近くになってしまう(バスなら早朝に着く)のでバスを選択したのだった。

 駅はここから1キロメートルほど歩いた街外れにある。線路に沿った道は流通地区を通っているらしく、ナトリウムランプの下を大型トレーラーが行き交い、店ひとつ見当たらない寒々とした通りである。

 

 

 やがて駅に着く。駅前広場も巨大なら駅舎も巨大である。正面入り口のガラス扉は防寒のためか閉め切っているので、ホーム側から入る。蛍光灯に照らされた出札ホールにも椅子の並ぶ待合室にも人影はない。しかし切符売場は常時開いていて、すぐに寝台が手に入る。切符には名前も書かれるのでパスポートを見せたら、「ロシア語で名前を書いて」と言われる。

 オデッサまでの運賃はたったの141フリブニャ(570円)である。バス運賃は後日返金されたし、もしかするとリボフから乗ったのと同じような中型バスだったかもしれないから、列車にした方が正解だったかと思う。

 発車までは時間があり過ぎるけれども、中心街へ戻るのもおっくうだ。駅前広場にはカフェと称する酒場のような店があるけれども、労務者風のおっさんたちでいっぱいなので入りたい雰囲気ではない。ミニスーパーで明朝の食料だけ買って駅に舞い戻る。

 

 

 改めて駅舎内を観察する。外観は武骨であったが、壁は大理石張りである。しかも窓の上部には小さなステンドグラスがはめ込まれている。この街や近在の名所を表現していてなかなか美しい。ホールを見下ろす回廊には背の高い観葉植物の鉢が並べられてもいる。

 壁には大きな「独立国家共同体とバルト三国」と題した路線図が掲げられている。全ソ連邦の地図だからウクライナなど左下の隅っこでしかない。1997年ともあって、もう20年以上も貼りだされたままなわけだ。人々に触られたせいで、この街やキエフのあたりは手垢で黒くなり、すり切れてしまっている。

 その他の壁面には「旅客用インフォメーション」と称する掲示物がむやみやたらと張り出されている。割引の一覧表には「連邦英雄」の欄に上から廃止のシールが貼ってある。

 待合室のさらに奥には荷物預り所がある。入口に檻があって入れない。壁にはこれまた武骨なロッカーがあるけれども、久しく使われていないようだ。

 

 

 待ち時間が長いのでトイレにも行きたくなる。ブースは全てトルコ式(要するに金かくしの無い和式)で、それはともかく仕切り壁の高さが1メートルほどしかない。むかし北京駅で似たようなトイレを見た記憶があるけれど、もうさすがに中国でも都市部にこんなトイレは残っていないのではないか?

 

 さて、118列車キエフ行きの発車時刻は23時57分である。22時をまわると徐々に乗客が集まって来て、駅が活気を帯びてきた。キエフからの列車も定刻に到着する。

 

 

 やがて、チェルニフツィから来たキエフ行き列車が到着する。これも定刻である。

 ホームに積もった雪を踏んで、指定された2号車に乗り込む。車内は小さな電球が点いているだけで薄暗い。「プラッツカルタ」と称する、通路側にも寝台がある「ハードクラス」の寝台車である。

 但し、最上段は寝具の置場になっていて、寝台としては使用していない。

 一方、通路側の座席は、テーブルを一回転させると下段の寝台ができるようになっている。乗車率はあまりよくなく、通路側まで使用している区画は無いようだった。

 

 切符は車掌がファイルに挟み込んで持って行ってしまう。下車駅が近づくと返しに来るので乗り過ごす心配はないけれども、熟睡はできないので壁によりかかってうとうとする。リボフ行きと同様に、激しく上下に揺れる区間がいくつかある。2時20分頃、操車場のような所で停車する。ややあって後ろ向きに走り出し、もう一度停まる。そこが乗換駅のフメリニツィであった。

 

 新雪を踏んでこれまた巨大な駅舎に入る。シャンデリアのあるホールから左右に通路が伸びていてそれぞれ切符売場やトイレに通じている。深夜なのに列車待ちの人がたくさんいて、通路にまで置かれた椅子にじっと座っている。サンドイッチなどの売店も開いている。ウクライナの国土は広く、主要都市を結ぶ列車も夜行が多い。だから幹線の十字路ともいうべきこの駅では深夜の発着が多くなるのは当然だ。時刻表を見ると、2時44分、2時55分、3時42分にキエフ行き、3時34分にはオデッサ行き、3時50分には始発のヴィンツィヤ行きがある。

 

 列車の時間が来て小雪の舞うホームに出る。幅の広い線路をまたいで7番線まで行く。線路幅はJRなどの1.5倍もあるから、2歩でも跨げない。隣のホームではヴィンツィヤ行きのディーゼルカーがうなりを上げている。

 定刻に少し遅れて列車が入ってくる。12号車を先頭にした長い編成である。番号のない車両もあったから、実際はもっと長い。号車番号は端の窓に貼られている。指定の車両は1号車、最後尾である。

 

 

 今度の列車も先程と同じ、ハードクラスの寝台車である。深夜だから車内が暗いのは当然で、おばさん車掌が車掌室隣の区画を指し示す。乗車率は半分くらいか、ほぼ下段寝台が埋まっている。車内のトイレに行く。洋式便器であるが、便座の両側に足載せ台が耳のように張り出していて、蹲踞してトルコ式にも使えるようになっている。宮脇俊三氏がボストーク号で見たのはこのタイプだったのだろう。

 もう、明け方と言ってもいい時間である。ベッドに戻るとたちまち寝入ってしまった。

              *   *   *

 

 

 翌朝、7時過ぎに目を覚ます。窓ガラスに氷塊が張りついている。カーテンはオデッサの劇場の図柄入りである。リボフとオデッサを結ぶこの列車専用の客車なのだろうか。買っておいたパンで朝食にする。夜明けが遅いから、8時頃になってもそもそと起き出す人も多い。駅は数キロメートルおきにあり、もちろんほとんどを通過するけれども、さしたるビルも無いような町の駅でも貨車が何両も留置されている。

 

 雄大にうねる耕地や樹林を眺めているうちに時間が経ち11時近くになった。トロリーバスの架線や28階建ての高層アパートが現れ、エレクトリーチカ(近郊電車)の停留所を過ぎる。線路と道路の間には柵もなく、トタン板を葺いた平屋の家並みは寂れた鉱山街のようだ。

 

 

 定刻11時16分に5分遅れて、終着のオデッサ中央駅に到着した。屋根のないホームに小雪が舞い、はるか前方の駅舎には「ようこそ、英雄都市オデッサへ」とあるのが見える。

 

 

 駅のホールに入ると、ドーム天井からシャンデリアが下がっていて、やはりこれまで見た駅とは格が違う。2階の回廊に上がって駅前広場を望めば、玉ねぎドームを抱いた教会が見える。ポーランドの世界からロシアの世界へ戻ってきたのだ。

 

 

<11 オデッサ へ続く>

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