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福山機長の夜間飛行記録

月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。


今週は、ノンフィクション作家・神山典士の『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』を、一部編集してお送りしています。


今夜はその第4夜。


「1章 玖馬 一八九六 『移民一世』」から、「謎の柔道家コンデ・コマ」。


作家は、真鍋直さん、内藤五郎さんら移民1世たちに、1920年代に日本から来た柔道家、前田光世の記憶を聞き出す事に成功した。


第二次世界大戦中、アメリカの影響下にあったキューバで、日本人男性が強制収容所に送られた記憶も、登場する。


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直さんと五郎さんだけではない。


その後出会った、やはりハバナ市内に住む宮坂さんご夫妻もまた、キューバ人から、あるいは先に来ていた日本人移民から、コンデ・コマの話を聞かされた記憶を持っていた。


そのエピソードは、彼らの中にしっかりと刻まれている。


例えば直さんは、こう言う。


「コンデ・コマさん言うても、最初は何人かと思いましたよ。


日本人の名前じゃないですからね。


でも現地の人や、先に来ていた日本人に聞くうちに、日本人の前田光世さんという柔道家だという事が、分かってきました。


私はハバナではなくて、東部の田舎に入植したのですが、そこでも当時のキューバ人は、みんな知っていました。


私たちが来た頃には、もうコンデさんは、島を去っておられましたけれど」


五郎さんの記憶はこうだ。


「こちらに来た当時、僕らの顔を見ると、キューバ人は最初、チノ、チーノと呼ぶ。


何かと思ったら、チーノというのは、中国人の事なんだ。


当時は、僕らは日清戦争に勝った日本人だという誇りがあったから、


『チーノじゃない、ハポンだ!』


と言って、怒ったんです。


すると、キューバ人は、


『なんだ、ハポンか。


じゃあ、コンデ・コマを知っているだろ?』


と、言ってくる。


『彼は強い柔道家だった』


と言って、それ以降パタッと、チーノと言わなくなった」


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第二次大戦中に、強制的に入れられた日本人収容所の中でも、五郎さんはコンデ・コマに関する思い出を持っている。



[収容所]


5階建てのその収容所の中で、五郎さんは1916年に新潟から移民してきたという、窪田忠雄さんと一緒になった。


キューバ東部の山中で生活していた窪田さんは、


「俺は、コンデ・コマさんの試合の前座に出た事がある」


と言って、五郎さんを驚かせたという。


「窪田さんは、当時コンデさんがキューバの各地で試合をする時に、飛び入りで前座試合に出た事があったと言うんです。


その時コンデさんは、500ドルの懸賞金を賭けて、試合をしたそうですよ。


最初は誰も相手がいなかったけれど、黒人が飛び入りで勝負になって、力づくでコンデさんをねじ伏せようとしたらしいんです。


コンデさんが、寝技で関節の逆を取ったら、黒人はそのままコンデさんを持ち上げようとした。


ところが、途中で腕がポキッと折れてしまって、黒人は泣き出したと言っていました」


記録によれば、コンデ・コマ=前田光世は、1908年、10年、そして21年の3度、キューバを訪れている。


だから、直さんも五郎さんも、その勇姿には間に合っていない。


唯一、貴重な生き証人だったはずの窪田さんも、1982年にキューバで他界している。


けれど、コンデ・コマと呼ばれた日本人の若者が、確かにこの地を踏んだのだという記憶は、およそ1世紀を生き抜こうとする、キューバの日本人移民の生活の中に生きていた。


【画像出典】