JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、ノンフィクション作家・神山典士の『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』を、一部編集してお送りしています。
今夜は、その最終夜。
「1章 玖馬 一八九六 『移民一世』」から、「柔道着試合で2000勝無敗」そして「アマゾン奥地から突然現れた後継者」。
1996年、作家がキューバを訪れると、80歳を超えた移民1世の人たちは、コンデ・コマ、つまり前田光世の伝説を鮮明に覚えていた。
遥か明治時代に世界を渡り歩いた、その男の足跡は、当時日本にはほとんど残っていなかったが、突如ブラジルから前田の後継者を名乗る格闘技一家が現れ、世界の注目を浴びる事になる。
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コンデ・コマ=前田光世。
彼の足跡を留めているのは、故郷・弘前の弘前城公園の一角に立つ、碑文のみと言っていい。
そこには、こう書かれている。
「君は明治11年11月、船沢村に生まれる。
父は了、母はいそ。
弘前中学、早稲田中学を経て、東京専門学校に学ぶ。
明治30年、講道館に入門。
37年、4段を以て、当時既に実力第一人者として世に認められた。
早大、一高、学習院、東京高等師範学校などの柔道指導に当たり、更に米国及び欧州諸国に遍歴し、5尺4寸18貫(およそ164センチ、67.5キロ)の体躯を以て、よく全世界に日本柔道の威力を発揚し、後7段に進む。
大正4年ブラジルに渡り、海軍兵学校の師範となり、後ベレン市に住み、アマゾン開拓に意を注ぎ、南米拓殖会社の創立に尽瘁し、同地方移民を先導す。
君は、性温良温顔、コンデ・コマの名をもって慈父の如く敬慕され、昭和16年11月、同市に永眠する。
享年63歳」
その碑は、桜で有名な弘前城公園の入り口を入ったすぐ左側に立っている。
[弘前城公園]
だが今では、新設されたテニスコートのフェンスとトイレに挟まれて、通りがかりの観光客も、それとは気付かないほど、影の薄いものになっている。
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ところが、時に歴史は面白い物語を仕掛けてくれる事がある。
実子も無く、故郷でも途絶えてしまっていた彼の遺志を継ぐ者が、ある日突然、南米大陸の奥地から現れてきた。
その舞台は、世界を相手に闘い歩いた男に相応しく、北米大陸、ロッキー山脈の麓の町デンバー。
1993年11月、この町で開かれた「アルティメット・ファイト(究極の闘い)」と冠された格闘技大会で、世界中から集まったレスラーや空手家、ボクサーらの格闘家をなぎ倒して、世界最強の男の称号を得たブラジル人の若者の口から、コンデ・コマの名が語られた。
柔道着を纏い、ホイス・グレイシーと名乗る、当時26歳のその若者は、トーナメントで闘った3人の格闘家を、わずか2分4秒、57秒、1分40秒という圧倒的な力量差で破り、その実力を世界に示した。
大会後、彼の父であり、グレイシー柔術の創始者を名乗るエリオ・グレイシーは、当時82歳。
[エリオ・グレイシー]
日本の格闘技雑誌の記者のインタビューに対して、こう答えている。
「1914年、アマゾンのベレンに、前田とイオマタという日本人がいて、私の兄弟は3年〜4年間、前田に柔術を習った。
私は5人兄弟で、4人の兄がいて、上からカルロス、ガシトン、ジョージ、そして私だ」
インタビューに同席したエリオの長男のホリオン・グレイシーが、グレイシー家とコンデ・コマの関係を補足している。
「前田がブラジルに伝えたオールドスタイルの柔術は、動きが固かった。
だから、体格に恵まれなかった父は、体力のハンディを逆に武器にしながら、『柔よく剛を制す』の精神で、オリジナルの柔術を作っていったんだよ。
それが、グレイシー柔術さ」
この時登場したグレイシー柔術は、その後世界の格闘技界の寵児となり、ホイスとその兄ヒクソンの兄弟を中心として、世界に広まっていく事になる。
コンデ・コマに、直接柔術を習った兄カルロスは、既に亡くなっている事から、グレイシー家としても、前田光世にまつわる記録はほとんど残っていないという状況だが、グレイシーの威光から、日本の格闘技ファンの間では、コンデ・コマ=前田光世に対して、新しい光が当たり始めた。
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