JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、ノンフィクション作家・神山典士の『グレイシー一族に柔術を教えた男 不敗の格闘王 前田光世伝』を、一部編集してお送りしています。
今夜は、その第3夜。
「1章 玖馬 一八九六 『移民一世』」から、「謎の柔道家コンデ・コマ」。
神山は、こう書いている。
「日本に残る文献には、コンデ・コマ(前田光世)はアメリカを振り出しに、ヨーロッパ諸国や中南米を闘い歩き、ちょうどバカ・ゴルダの時代に、アマゾンからメキシコを経て、キューバに来たという記録が残っている。
ハバナを訪ねるまでは半信半疑だったが、移民1世たちとの会話を重なる中で、ある確信が心に宿るようになった。
『コンデ・コマ』
彼らならば、必ずこの名前に連なる記憶を持っているに違いない」
バカ・ゴルダとは、第一次世界大戦が引き起こした、砂糖による空前のキューバの好景気の事だ。
アメリカ経済に支配されたキューバで、ドルとペソが混在した歴史は続く。
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バカ・ゴルダの勢いも、翌年には早くも急落の兆候を示し始めた。
砂糖相場を、ニューヨーク・ウォール街の投資家に握られたキューバ経済は、一攫千金を狙って投機に走る者の出現と共に、大恐慌に反転。
金融機関は各地で破綻し、キューバ国立銀行すらも破産を宣言。
それらは、アメリカ資本のナショナル・シティ・バンクに吸収されていく。
移民の真鍋直さんがキューバに到着したのは、この混乱が収まった1927年(昭和2年)11月。
既にバカ・ゴルダ(太った雌牛)の姿はどこにも無かったが、貨幣はドルとペソが等価で並立して使われ、どちらの札を出してもスムーズに買い物ができる、ドルベースの生活になっていた。
やがて、およそ30年後の1956年11月。
フィデル・カストロ率いる、僅か12名の青年たちの反乱で始まった独立戦争、つまり革命により、市内に溢れていたドル紙幣は一掃された。
対してアメリカは、キューバに対する経済封鎖を宣言。
翌年には、キューバ・シュガーの輸入も拒否し、この事態を救う形で、当時のソビエト連邦がキューバ支援に乗り出してくる。
キューバは、緊張のピークにあった東西冷戦構造に巻き込まれ、激流に呑まれていく。
それ以来、アメリカの経済封鎖が続くキューバは、極端な物不足が続いている。
例えばハバナ市内の道路を走っているのは、革命以前に輸入された50年代のアメリカ車と、革命以後ソビエト連邦崩壊までの間に輸入された、ソビエト車のみ。
[ハバナ]
タイヤはボロボロ、窓ガラスは無く、塗装も自前でつぎはぎというのが当たり前だ。
けれど、この島の地中深く、人々の生活の中にはしっかりと、バカ・ゴルダに連なるアメリカドル経済の影が残っていた。
直さんが、ペソをドルと呼ぶ事に固執している背景には、この国の歴史があった。
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直さんは、バカ・ゴルダの時代には間に合わなかったものの、それに連なる黄金時代の明るい光に満ちた、ドル経済の生活を懐かしんでいる。
同じく移民1世で、取材当時88歳の内藤五郎さんは言う。
「私らは、砂糖の好景気には間に合わなかった。
こっちに来てから、先に来ていた日本人から、当時の事はよく聞いたですけどね。
ほんの少しの農地を耕すだけで、日給を今の何倍もくれたという話を聞いた事も、あったですよ」
遥かなる、古き良きキューバの黄金時代、バカ・ゴルダ。
その時代を知る人にならば、こう問いかければ、必ず何か記憶を引き出してくれるに違いないと思えた。
「キューバに来た時に、コンデ・コマという名の日本人柔道家の事を、耳にした記憶はありませんか?」
案の定、会話の途中でその名を口に出すと、移民1世の直さんも五郎さんも、膝を打つようにして、こう口を揃えた。
「ああ、コンデ・コマさんね!
話は聞いた事はありますよ。
私たちが来た頃は、もうアマゾンに去った後でしたが、彼の話は日本人からもキューバ人からも聞きましたよ」
間に合った!
コンデ・コマの名前を出すと、二人は懐かしい旧友に出会ったかのように、相好を崩して、記憶の糸を手繰ってくれた。
さらに、こう続けた。
「当時、日本人がキューバに着くと、決まって地元の人から、
『君は日本人か?
だったら、コンデ・コマを知っているだろう?
彼はジェントルマンだった。
とても強い男だった。
この島で、何回も闘った。
一度も負けない柔道家だった』
と、聞かされたものです」
【画像出典】
