JET STREAM Skyway Chronicle
今週は、国際線就航70年を記念したスペシャルフライト。
ジェット時代の幕開けと海外渡航自由化により、北回りロンドン線が開設された、1965年ロンドンへの旅。
作家・バリー・マイルズによる回顧録『ポール・マッカートニー メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』から、一部編集してお送りしています。
今夜はその第3夜。
1960年代中旬、ポール・マッカートニーが、刺激的なロンドンのカルチャーシーンと出会い、吸収していく時代の記憶。
ポール・マッカートニーに、現代アートや音楽、文学と、多大な影響を与えたジョン・ダンバーと、歌手マリアンヌ・フェイスフルが暮らす、レノックス・ガーデンズのアパート。
様々な文化人が集うこの場所は、ポールの感性を目覚めさせ、新たなサウンドやカルチャーを、生み出していった。
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時には、レノックス・ガーデンズに集まった連中に、音楽の創作意欲が湧く事もあった。
ほとんどのメンバーは、音楽の才能が無かったので、楽器はパーカッションに限定され、マリアンヌの鍋も台所から持ち出されて、ボンゴとして使われた。
唯一まともに演奏されるギターや、正確に刻まれるリズムに合わせて、部屋中に不協和音が鳴り響く事になった。
ワイングラスの演奏も、恒例の行事だった。
ワイングラスの縁を濡らして、ゆっくりこすると、澄んだベルのような音がする。
グラスの水量を変えれば、音階が出来るので、5〜6人がストーン状態で、床に座ったまま、同時演奏をした。
ポールは、常にサウンドを作る新しい方法や技術に目を向け、特に従来に無いサウンド源を用いる事に、興味を示した。
ポールは言う。
「長い間、興味を覚えていた事に取り組む時間が、やっと出来た。
10代半ばから、アーティストの実験的活動や、探究的なカルチャーについての本を読んで、興味を持っていたんだ。
マダム・プラワツキーとか、シュールレアリズムの創始者となる、アンドレ・ブルトンとか。
その系統の本を読んで、こんなボヘミアンな芸術的な事も可能なんだと、僕の感性が目覚めたんだ。
この方面の研究には、時間を費やしたよ。
ビートルズの音楽をやりながら、こういった方面も追求するのは、バランス的にも良かったし、これがビートルズ作品に応用できたのも、良かったし」
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8月のある晩。
レノックス・ガーデンズを訪れたポールに、マリアンヌは、『イエスタデイ』をレコーディングする計画があると、打ち明けた。
この曲をどう扱うべきか。
二人は長い事話し合った。
8月6日に、アルバム『ヘルプ!』がリリースされてから、既に何人かが、『イエスタデイ』のカバー制作に入っていたので、とにかくマット・モンローより、早くこの曲をリリースするようにと、ポールは助言した。
ポールは、マリアンヌの『イエスタデイ』をヒットさせたかった。
彼女は友人であったし、以前に彼女に曲を提供すると約束をした記憶が、あったからだ。
[マリアンヌ・フェイスフル]
マリアンヌの『イエスタデイ』が、1965年10月22日にリリースされると、ポールはできる限り曲の宣伝に協力した。
グラナダ・テレビは多額の予算をかけて、『レノン・マッカートニーの音楽』という、特別番組を企画した。
ビートルズ作品を歌った有名スターが、ビートルズの紹介によって登場し、ビートルズも『デイ・トリッパー』と『恋を抱きしめよう』を、リップシンクで歌うという内容だった。
マリアンヌは振り返る。
「ポールは、私をグラナダの番組に出演させてくれたの。
彼が曲の出だしを歌ってくれたのは、素晴らしかったわ」
ポールが椅子に座って、ギターをつまびきながら歌い始めた『イエスタデイ』が、30秒後には、合唱団とオーケストラ付きのマリアンヌの『イエスタデイ』に変わっていく、という演出だった。
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