2024/5/27 1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。① | 福山機長の夜間飛行記録

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月曜日から金曜日までの毎晩放送されるラジオ番組"JET STREAM"のうち、福山雅治機長のフライト部分を文字に書き起こして写真を貼り付けただけの自己満足ブログです。(※特定の個人・団体とは一切関係ございません。)

JET STREAM Skyway Chronicle


今週は、国際線就航70年を記念したスペシャル・フライト。


海外渡航自由化、そしてオリンピック聖火の輸送が行われた、1964年東京への旅。


コラムニスト・泉麻人のエッセイ『1964 前の東京オリンピックのころを回想してみた。』から、一部編集してお送りします。


今夜は、その第1夜。



1964年の、東京オリンピック開催当時。


泉麻人が暮らしていた、新宿区落合。


その頃の懐かしい風景を、泉はこんな風に綴っている。


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オリンピックの頃の、東京の街並みについて、書いておきたい。


新宿や渋谷、銀座などの繁華街の、当時のスナップを集めた写真集をいくつか持っているけれど、都心の方は後回しにして、まずは我が町の周辺から。


僕の暮らしていた落合という所は、新宿区の北西部にあって、我が家の辺りは、オリンピックの年の翌年くらいまでは下落合、その後は中落合の町名になった。


[落合]


現在の大江戸線の、落合南長崎駅のすぐ近くだったが、目白の方から来る目白通りに面した、八百屋さんの角の横道を入った先で、カラタチの垣根なんかをしつらえた、割とゆったりとした民家が並ぶ、山手町住宅街が奥へと続いていたが、脇道を折れた一角に、こじんまりした平屋が軒を並べる、いわゆる路地裏があった。


このエリアを、うちの大人たちは長屋と呼んでいたけれど、横長の1棟を3軒、4軒に分割した、下町によくある本当の長屋ではなく、固定の木造の家が、ポツポツと並んでいるだけだった。


家の前の道は、もう僕が物心つく頃には舗装されていたけれど、この一角は土の地面の所々に砂利が敷かれて、不形成な石ころや、瀬戸物の破片なんぞが埋まっている道だった。


逆L字を描くように、奥へ続く路地に入っていくと、時計修理の看板をひっそり出した、古い家の角の道端で、ガキ共が何かの樽を裏返しにした台の上でベーゴマ、その前の路面でめんこをやっていた。


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多分、初めてここに足を踏み入れたのは、小学生になったかどうかの頃だった、と思われる。


大体僕より2〜3年上の連中が主体で、中学生くらいの兄ちゃんも混じっていた。


ここで遊んでいるのは、ちょっと上世代の兄ちゃんたちなので、ベーゴマやめんこに描かれた野球選手の名や、絵柄のテーマが古いのだ。


めんこの絵は、エンタツアチャコや赤胴鈴之助、なんていった感じで、年少の僕はピンと来なかった。


つまり、4年、5年と使い回されてきた、遊び道具なのである。


ベーゴマやめんこの諸場のある角を曲がって、ちょっと行った右手に、井戸をポツンと置いた小さな空き地があって、ここでは何度か缶蹴りをやった覚えがある。


傍らのドブ溝に、黄桃缶の空き缶なんかがよく捨ててあって、こういうのをポンプ井戸の水で洗って使う。


銀玉鉄砲で遊んだのもこの路地裏だったが、ここが新道路のスペースになって、消えてしまうのだ。


オリンピックの時には、まだ完成していなかったから、いわゆるオリンピック道路とは呼べないかもしれないが、1964年辺りに立ち退きが始まって、翌年くらいに200メートルほどの区間が、広々としたアスファルト道路になった。


道路と言っても、まだ当初1〜2年は幹線道路と繋がっていなかったので、大して車が入ってくる事も無く、格好の遊び場になっていた。


【画像出典】