JET STREAM・・・作家が描く世界への旅。
今週は、作家・村上春樹の紀行エッセイ『遠い太鼓』の中から、「アテネ」の章を番組用に編集してお届けしています。
村上春樹は80年代に、イタリアとギリシャに滞在する3年間の長い旅に出た。
今夜は、『遠い太鼓』アテネ編の最終夜。
アテネでバレンティナに勧められて、作家はギリシャでの住まいを、スペッツェス島に決める事にした。
10月のアテネの街には、焼き栗の香ばしい香りが、漂っている。
「さてさて。
それで、これが肝心のお家ね」
と、彼女は家を図解する。
「こういう感じの2軒続きのお家なの。
隣には、オーナーのタキスさんの義理の弟に当たるハリスさんという人が住んでるの。
彼は英語が喋れるから、何かあった時には、便利なんじゃないかしら」
彼女の説明を要約すると、大体こういう事になった。
1階には、居間とキッチンとバスルームと、小さな子供部屋がある。
2階は吹き抜けになっていて、半分がベッドルーム。
そして、若干の庭。
問題は、いくつかある。
まず第一に、僕が仕事をするための、独立した部屋が取れない事。
第二に、バスタブが無い事。
「サマーハウスだから、そんなもの無いのよ」
と、彼女は言う。
第三に、電話が付いていない事。
第四に、その割に家賃が決して、安くない事。
8万ドラクマを、彼らは要求している。
8万ドラクマと言えば、ギリシャではちょっとした金である。
でも、バレンティナと島の話をしているうちに、僕はだんだんそこに住みたい気持ちに、なってきた。
それに、これからまた別の家を探すというのも、いささかしんどい。
ギリシャでの家探しというのも、結構大変なのだ。
まあここにとりあえず、住んでみるとしようか、という事になる。
車も走っていないような、静かな島らしいし。
僕は、
「その家に決める事にする」
と、バレンティナに言う。
そして、1ヶ月分の前家賃を、小切手で払う。
それで、話はおしまい。
簡単である。
でもまあ、これで何とかギリシャにおける、我々のとりあえずの住居が決まった訳である。
別れる前に、バレンティナは僕を近所の書店に連れていって、英訳されたギリシャの現代作家の本を、いくつか選んでくれた。
書店の前で、彼女は焼き栗売りのおじさんから、焼き栗を1袋買う。
10月になると、アテネの街は、焼き栗売りのおじさんの屋台で溢れる。
街は、焼き栗のプンと香ばしい匂いで、いっぱいになる。
[栗]
彼女は、そのおじさんと顔見知りなのか、何事か話をしている。
彼女が笑い、おじさんも笑う。
「これを使ってね、息子に今から昼ごはんを作ってあげるのよ」
と、バレンティナは僕に言う。
焼き栗を使って、一体どんな昼ごはんを作るのか。
僕にはすごく興味があったのだが、残念ながら聞きそびれてしまった。
昼食の時間が、迫っているのだ。
僕らはそこで別れる。
「すご〜〜〜〜〜く、楽しんできてね」
と、バレンティナは言う。
「本当に、ビュ〜〜〜ティフルな所だから」
「どうも。
色々と、ありがとう」
と、僕は礼を言う。
そしてバレンティナは、原色の蝶のような、派手な色合いのスカートの裾を翻しつつ、アテネの人混みの中に消えていった。
その後、バレンティナとは、電話で1度話した。
でも、1度も会っていない。
【画像出典】