『JET STREAM』
作家が描く世界への旅。
今週は、作家ピート・ハミルの短編集『ニューヨーク・スケッチブック』高見浩・訳より、一部編集してお送りしています。
今夜はその第3夜。
ニューヨーカーたちのほろ苦い出会いと別れのドラマを、ピート・ハミルは、優しく書き綴っていく。
長い別離の後に、再び巡り会ったかつての恋人、ハーシュとヘレン。
このささやかな恋物語の最後に、微笑みは待っているだろうか?
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「じゃあ、今ならお父さんは、君がユダヤ人の僕と結婚するのを、許してくれたろう、と言うのかい、ヘレン?」
「今なら私は、誰と結婚しようと私の勝手でしょ、と父に言ったと思うわ」
彼女の手が、ハーシュの手に触れた。
すると彼の胸には、言いたい事が、津波のように溢れてきた。
一人暮らしで、虚しく時を過ごす、侘しさの事。
ずっと昔、二人が知っていた、共通の友人たちの事。
そして、プロスペクト・ホールに彼女をダンスに連れていって、アイルランド系とイタリア系の男たちの喧嘩騒ぎに巻き込まれ、非常口から彼女を引っ張り出して、夏の夜が更けるのも忘れて、何時間も歩き回った時の事。
[プロスペクト・ホール]
彼は、ヘレンに打ち明けたかった。
陸軍を除隊したのち、街頭でばったり彼女に会えるかもしれないという、一縷の望みを胸に、86丁目のヤーンズの店に、数ヶ月も通い続けた事。
それから数年経って、やっと諦めがつき、自分の心に踏ん切りがついて、彼女が古いアルバムの中の一枚のスナップも同然の存在になった時、妻と初めて激しい口論をして、プイッとガレージに飛び出し、オイスター・ベイからニューヨークまで、はるばる車を走らせて、彼女の居場所を知ってる奴に巡り会えやしないかと、久方ぶりにブルックリンのベースン・ハーストを、82番街をうろついた事。
だが、ハーシュは何も言わなかった。
彼はただ大きく息をつきながら、話の接ぎ穂を探していた。
そのうちヘレンが手を離して、腕時計に目を走らせた。
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「そろそろ、会社に行かなくては」
と、ヘレンが言った。
「ああ、そうだろうな、ヘレン。
そうだろうとも」
「すぐそこなのよ、私の勤め先」
「ああ、なるほどね」
二人は同時に立ち上がり、ハーシュがギクシャクした手つきで、二人のコートに手を伸ばした。
彼がコートを持ってやると、ヘレンは優雅に身を動かして、袖に手を通した。
横からウェイトレスが、伝票をテーブルに置いた。
ハーシュは、モゾモゾとポケットをまさぐり、反対側のポケットに手を突っ込んで、やっとマネークリップを探し出した。
コーヒーカップの下に、1ドル紙幣を挟んだ。
脇にどいて、ヘレンを先に立たせると、ガランとしたコーヒーショップの中を、戸口まで歩いた。
雨はまだ、激しく降っていた。
ハーシュが、伝票と5ドル紙幣をレジ係に手渡すと、釣り銭がチャリンと音を立てて、金属製の丸い盆の中に落ちた。
ハーシュは、歩道に面した扉を押し開け、ヘレンは、水浸しの道路を一気に駆け抜けようと、蝙蝠傘を開き始めた。
「お会いできて、楽しかったわ、ハーシュ」
彼女は言った。
「ああ、本当にね。
本当に、楽しかった」
「じゃ、私、駆けて行かなくちゃ」
「ああ」
彼女は戸口に向き直って、ドアを押さえた。
その時、ハーシュが、彼女の腕に触れた。
「あの、ヘレン。
どうかな?
その、今夜、夕食を付き合ってくれないだろうか?」
「いいわ」
「で、明日の晩は、ミュージカルを見に行く、というのはどうだろう?」
「いいわ、ハーシュ」
彼女の顔に、微笑みが広がった。
「いいわ。
ええ、いいですとも」
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