「新しい空の旅へ」
毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。
今週は、作家・谷村志穂書き下ろし、フィンランドのヘルシンキを舞台とする2人の男女の物語を、5日間に渡ってお送りしています。
今夜は、その第2夜。
ヘルシンキの街を旅する、一人の女。
港のマーケット広場には、青空の下、新鮮な魚介やたっぷりと太陽を浴びた野菜や果物が並び、目にも鮮やかな光景が広がっている。
数え切れない種類のベリーに、きのこやベーコン。
一通りマーケットを巡り、立ち寄った広場のカフェで、彼女に少し申し訳なさそうに、片言の日本語で声をかけてきた一人の青年。
彼らの出会いは、そんな風に始まった。
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彼とのやり取りは、帰国後もメールやSkypeで続いた。
サマータイムの時期で、時差は6時間。
日本が先だ。
Skypeの場合は、彼が仕事を終えて帰宅するのを、私は深夜まで待つ事になった。
ある時、
「ベリーの味が忘れられないなぁ。
特にあの、リンゴンベリー。
[リンゴンベリー]
日本では、コケモモと呼ぶみたい」
と言った私に、
「だったら、夏の終わりには、またこちらに来なきゃ。
森に、野生のリンゴンベリーを摘みに行こう。
信じられないかもしれないけれど、フィンランドでは、国定公園のベリーも、誰でも平等に摘み放題なんだ。
値段も、フリー。
小さな国だから、みんなが採っても無くならない」
彼はその週末には、森で実をつける準備をしているリンゴンベリーの、薄桃色の小さな花の画像を送ってくれた。
[リンゴンベリーの花]
可憐な花。
鈴が並んでいるよう。
「ほらね。
来なくちゃ」
と、Skype越しに手招きする。
誘われるままに出掛けたのが、7月の終わりだった。
二人でヘルシンキの街を歩きながら、食事をしながら、フィンランドでは、フィンランドの家族は、フィンランドの男は。
沢山の話を、聞いた。
どの話も、私は彼から初めて聞いたに等しく、どこかおとぎの国の話のように響いた。
この国には、徴兵制がある。
入隊すると、皆1本の斧を渡される。
斧で木を切る事ができなければ、フィンランドの男は始まらない。
その斧で切った薪をくべて、サウナをゆっくり準備する。
[サウナ]
サウナは、どの家にとっても、大切な場所。
年を越す時には、家族が順番でサウナに入り、体を清める。
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どんな話を聞いていても、未知の扉が開いていった。
知らない事を知る度に、港のマーケットのカラフルな光景が、脳裏に広がるようだった。
けれど、時々その空は青空ではなく、グレイ混じりに変わった。
彼の元の恋人は、京都の女性だった。
実家は旅館で、サウナのもてなしについて、勉強しに来ていた。
彼は彼女を通じて、自分の国のどんな話が、日本人を驚かせるかを知ったはずだ。
彼女の声や表情や、手の動きから。
そして彼も、日本の事をよく知っていた。
きっと多くが、京都の恋人を通じて、覚えた事だったろう。
「素敵な人だったのね。
だからあなたは、日本人を好きになったんだよね」
私は半分皮肉で言ったのに、彼は屈託がない。
「日本の女性は、リンゴンベリーのお花みたいに、可憐だよね」
「馬鹿」って言いたくなったけど、
「キートス(ありがとう)」
と、サラッと言う。
私は、彼が今も追いかけているのは、京都の彼女の幻影なんじゃないかと、思うようになる。
私はカフェのテーブルで、彼の大きな手を掴んだ。
「そろそろ森へ行こう。
野生のベリー、山ほど食べてみせる」
その旅の出国スタンプの日付の赤字は、ベリー色に見えてくる。
【画像出典】