「新しい空の旅へ」
毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。
今週は、小説家・角田光代のエッセイ『いつも旅のなか』より、一部編集してお送りしています。
今夜はその、第3夜。
小説家・角田光代の旅は、カリブ海の国キューバへ。
街の風景は、作家が旅してきたアジアの国々や、ヨーロッパとは一味違う。
海沿いの通りを抜けて、16世紀にスペイン人が造った首都ハバナの旧市街へ。
崩れ落ちそうな古い建物が並ぶ裏通りには、人々の暮らしが息づいていた。
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キューバについて、私が知っている事は全くと言っていいほど無い。
1つだけ知っているのは、アイスクリームを買うのに、3時間くらい並ばなければならない、という事。
これは、テレビで見た。
「物資不足で、アイスクリーム1つ買うのに行列」
というようなナレーションが入り、実際長い長い行列が、画面に映されていた。
キューバは遠い。
物凄く遠い。
私はカナダで1泊してから、キューバ入りした。
飛行場からハバナのホテルに向かう車に乗り込み、窓の外に目を凝らす。
この、飛行場から市街地までの車内が、旅の中でいつも最も不安な時間である。
キューバに着いたのは昼で、強い日差しが光景を隅々まで照らし出していたが、それでもやっぱりヒタヒタと不安である。
段々市街地が近づいてきた気配がする。
それにしても、なんだか光景が奇妙である。
その奇妙さの理由は、すぐに分かる。
看板だ。
街が近づくにつれ看板が増え始めるのは、世界中どこでも同じだが、キューバの看板に、見慣れたものは一切ないのである。
あるのは、チェ・ゲバラばかり。
チェ・ゲバラが、遠い目でどこかを睨む絵に、スローガンらしき文字が、ダーンという感じで書かれている。
[チェ・ゲバラ]
何が書いてあるのか分からないが、パターンを変えて延々続くチェ・ゲバラ看板。
これが、奇妙さの原因である。
ホテルまであと少しという時、窓の外に見覚えのある光景が見えた。
長い長い行列。
「あれ?
これ・・・」
思わず声に出すと、迎えに来てくれたガイドのパブロさんが、
「アイスクリームを買うために、みんな並んでいるんです」
と、私の目線を追って教えてくれた。
「ここのアイスクリームは、すっごく美味しいんです。
だからみんな、ああして待っている」
「えっ?
美味しいから、待ってるんですか?」
と聞くと、
「そう。
すご〜く美味しい」
と、パブロさんはうっとり答える。
なんだ。
それなら、荻窪のラーメン春木屋の前に、冬でも夏でも行列が出来てるのと一緒じゃん。
食事をするのに、前日から並ばなくても良いのだと分かって、ホッとした。
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この町は、どうやらチェ・ゲバラとヘミングウェイと、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブで出来ている事に、3日ほどすると気付く。
本当に至るところ、看板、塀、建物の側面、垂れ幕、店の軒先、ポスター、ショーウィンドウの中、もうチェ・ゲバラだらけ。
これは、革命の戦士への敬意とかではなくて、なんかもっと俗っぽい、アイドルスターのポスターみたいなものだと、だんだん思えてくる。
チェ・ゲバラは、ダントツに顔がいい。
永遠の、ハンサムさんだ。
例えば、渋谷には街中、ミュージシャンやタレントの顔入り宣伝ポスターがあるが、用途としては全く同じなんだと思う。
アイドルがいないから、いつまでもチェ・ゲバラで、宣伝するものが無いから、標語が印刷してあるだけ、の違い。
宿を出て、チェ・ゲバラだらけの新市街を抜ける。
道に迷ったら、路地の奥に海を探せばいい。
海が見えなかったら、道行く人に、
「マレコンは、どっちにあるのか?」
と、聞いてみればいい。
海岸沿いに走るマレコン通りは、真っ直ぐ行くと旧市街に出る。
[マレコン通り]
マレコン通りに出さえすれば、どんな方向音痴でも、道に迷う事はない。
純朴な青、という印象の海を左手に見ながら進むと、旧市街に近づいてくる。
雰囲気が一種異様で、圧倒される。
まさに、息を呑む。
通り沿いに並んでいるのは、崩れかけた廃墟なのである。
しかしその廃墟には洗濯物が翻り、3階のバルコニーに住人が佇んで、海を眺めている。
この廃墟は、現役の住居なのだ。
海に背を向けて、旧市街の路地に足を踏み込むと、さらに圧巻である。
屋根が崩れ、塀が崩れ、バルコニーが崩れ、壁はひび割れ、色はとうに褪せた建物が、互いを支え合うようにして立っている。
けれどやはりここにも、生活がある。
屋根の崩れた建物にさえ、人の生活の気配がある。
全く無責任な旅人的発言をすれば、しかしこのボロボロの廃墟は、なんとも言えず美しい。
見惚れてしまうような、正真正銘の美しさだ。
思うに、美しさの源は、時間ではないか?
16世紀にスペイン人たちによって建てられたものが、時間の経過をそのまんま飲み込んで、取り繕う事一切なく、そこにある。
【画像出典】