「新しい空の旅へ」
毎週、様々な主人公の旅の物語をお送りしている、『JET STREAM』。
今週は、写真家・星野道夫のエッセイ『イニュニック 生命 アラスカの原野を旅する』より、一部編集してお送りしています。
今夜は、その第2夜。
アラスカに魅せられた写真家・星野道夫は、その著書『イニュニック 生命』の中で、極北の地に息づく生命の輝きと、人々の暮らしを語り続けた。
短い春と夏。
カリブーの群れを追った旅では、ブッシュパイロットの友人ドン・ロスが操縦するセスナ機から見える、ユーコン川の雄大な風景や野生生物の姿を、臨場感溢れる言葉で伝えている。
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『カリブーの夏:海に還るもの』
「ドン、もう少し高度を下げよう」
スロットルを押し、プロペラの回転数を落とすと、セスナ185はゆっくり降下し始めた。
目にしみるような新緑が、どんどん視界を覆ってくる。
[森林]
初夏のアラスカ、北極圏。
穏やかに波打つ、原野の起伏。
這うように続く森、ゆっくり蛇行する川。
そして、無数の湖沼が、早送りのフィルムのように飛び去っていく。
窓ガラスに押し付けた顔が、太陽の温もりで温かい。
半年もの間、凍りついていた大地は、今怒涛の如く、息を吹き返している。
人間の感覚の中で、最も多くの情報を与えてくれるのは視覚だが、それさえも対象との距離で、別の世界を語りかけてくる。
飛行高度は、およそ40メートル。
原野を染める淡いグリーンの、木々の1本1本が見分けられる。
色のパターンなのではない。
息づく、個々の命が見分けられる。
天空に向かって真っ直ぐ伸びる、アスペンや白樺の柔らかい芽吹き。
かつて、あの1本の木の下で、誰かが佇んでいた事があるのだろうか?
わずか2ヶ月もすれば、紅葉、そして落葉なのに、木々は新しいスタートを切った。
誰も見てはいないのに、自然の秩序は、凛として存在し続ける。
森の切れ間から広がる湖に、ムースが水を飲んでいた。
1頭のハイイロオオカミが、キラキラと光る川の流れに沿って、歩いていた。
[ハイイロオオカミ]
翼を傾かせ、小さな弧を描きながら一周すると、僕たちはもう一度狼を見下ろしながら、その頭上を飛び過ぎた。
驚いた狼は一瞬走り出したが、すぐに元のペースで歩き始めている。
ヘッドホンを耳につけ、流れる風景を見下ろしながら、僕たちは話し続けていた。
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隣で操縦する友人のドン・ロスは、もう10年近くアラスカ北極圏を一緒に飛び回った、ブッシュパイロット。
僕はおよそ1ヶ月のカリブーの撮影を終え、迎えに来たドンと、フェアバンクスへ帰る途中だった。
「道夫、お前は気がついているかどうか知らないが、俺はアフリカに行って、この土地の持つ意味が分かった」
この冬ドンは、アフリカのモザンビークで、難民キャンプへ物資を運ぶ仕事をしていて、帰ってきたばかりだった。
アフリカで飛ぶ事、それはかねてからの、彼の夢だった。
「何時間飛んだって、まるで人気のない原野がずっと続いているだろう?
今までそんな風景は、当たり前だと思っていた。
見慣れてしまっていたんだな。
でも、アフリカから戻って、ここが別の世界のように新鮮に見える。
この土地ほど、手付かずの自然が残されている場所は、ないかもしれない。
その事が、アラスカを離れて、身に染みて分かった」
眼下を過ぎていく、きっと名前さえもついていない山や川の流れを見つめながら、僕はドンの言葉を反芻していた。
低空飛行をしているので、山あいの峠をかするように飛び越すたび、新しい世界が突然広がってくる。
アラスカしか知らない僕でも、ヘッドホンから聞こえてくるドンの言葉の意味が、分かるような気がした。
大地を唸る、ユーコンの流れが見えてきた。
[ユーコン川]
この川の解氷が、アラスカの夏を告げる。
そのブレイクアップの瞬間を見るため、ユーコンの畔で数日間を過ごした事があった。
ある日、何の前触れもなく、ボーンという小さな爆発音が聞こえ、半年もの間眠っていた川は、一気に動き始めた。
凄まじい音を立て、ぶつかり合いながら流れに乗ろうとする、無数の巨大な氷塊を見ていると、やはりこの土地の自然が持つ、動と静の緊張感に立ち尽くしてしまう。
あれほどキッパリと季節の変わる瞬間を告げる出来事が、あるだろうか?
今、飛び過ぎていくユーコンは、冬の形跡など微塵も見せず、夏の陽光に輝きながら、とうとうと流れている。
【画像出典】