産まれた日 生まれ続ける日常と変わり続ける人生絵図 そして、これから | ccrocoeさんのブログ

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こころ

おもい 徒然 

向いたとき


✻ 過去詩集を差し上げます。興味ある方はご一報ください。


一週間ほど、東京に行ってきた。ほぼ半年振り。懐かしい、常に渦渦とした、人の気配が止まない街。
たくさんの人に会いに行き、また偶然にも出会った。
当然ながら、濃い日々だった。しかも行く先々で涙が浮かび、溢れ、ときに規制が効かなくなって大変だった。 ‥ わたしは人に涙は出来るだけ見せたくないと思っている(ときどき勝手に流れてしまうけど)。 ‥こういうのは初めてだ。

自分のおもうように動くこと、に対して罪悪感に近い抵抗が生じる。もうずっと昔からの症状で、だから今は理性的判断でだいぶ動けるようにはなったけれど、故にいつもどこかぎこちない。
それでも、やっぱりわたしは動きたいし、出会いたいし、関わりたい。人に接し、変化し合い、出来ることなら笑顔を生み出したい。
徹底的な人間(己含む)不信の、荒涼とした世界を知っている。だから、怖くても、怖くても、信じるようにしてきた。傷付いたとしても、そうすれば流れる涙は温かいから。

最近、それがじゅうぶんに出来ていなかったのだとおもう。関わることで生まれる、自他へのストレスに疲れてしまった。自分の、そうなる頻度に辟易してしまった。そこに “ 努力ではどうしようもない ” という予感が追い打ちをかけて、わたしは、ほとんど自分をどう捉え(受け入れ)、どう進めばよい(進んでよい)のか、分からなくなってしまっていた。

はるか昔から自分への信頼を殆ど持ちあわせていない。そのため他から保証されていないと自分を発揮出来ない、どころか、常に不安にかられる。幼い子どもが、後ろから見守る親の姿がないと萎縮してしまうのに似ている。いい大人がそれを必要とするのは問題でない筈がない、勿論。求められるほうも迷惑極まりない。理解はしている。
論理的理解が即現実的な問題解決に繋がるかというと、思うほどにはそうならないのが常で、特に病気や障害の場合、その社会的認知、価値観や待遇にも大きく左右されると思うのだが、隔たりは大きい、ような気がする(単にわたしが難航しているだけかもしれないけれど)。

それで、過去の自分に会ってきた。知らぬが仏で図々しく生きてきた、今までの自分が築いてきたものを今一度、確かめたいと思った。症状的には過去のほうが重かったはずだし、自覚が曖昧だけに他者への影響は大きかったはずだ。でも、それでも培われた財産はあって、わたしにとって最大のそれは、やはり  というか 、それでも  なのか、つまり人間関係なのだった。

言うまでもなく、彼らは素晴らしかった。本当に。出会って良かったと、心からおもった。縁切れずにあることが信じられないくらいに素敵な人たちだった(或いは、そんな人だからこそ残ってくれているのかもしれない)。
そして今回初めて会った方に頂いた『あなたに会えてよかった』という思いがけない言葉。今のわたしにもまだ可能性が残っている、他者に対して何かしらの役に立つ働きが出来る可能性が。それは生きる甲斐、生きる勇気そのものとして、今のわたしにいちばん必要なものだった。

誰だって、平坦な人生を歩んではいない。誰だって、満足ならない自分を励まし勇気付け、踏み出している。どんな人間だったとしても、だからこそ、自己肯定だけは許されるのかもしれない。

今という作品に描かれる模様は留まらない。そして氷山のように表面的でしかない。自分はそこに含まれる部分に過ぎない。それならば、パーツとして割り当てられた個人的な明暗で一喜一憂するよりも、その作品がもっと美しくなるようなアレンジを試し続けるほうがいい。

なんて
心理的にも言動も(当然ながら)言うほど格好良く変化を遂げてはないけれど、過去の集大成としての今を『まんざらじゃない』と思えたことは大きな収穫だった。そして、 “ わたしだって ” という図々しさを少しは取り戻せたようにおもう。
なんてったって、生きているのだから。そこに自信を持ちたい。少なからず失敗もするだろうけれど、それはライヴの醍醐味ということで許されるのではないだろうか。

お会いしてくれた、敬愛する皆さまに 最大限の感謝をこめて。
また行きます!w
今回、お会い出来なかった皆さまに またの機会を願って。

過去をもっと輝かせたい。そのための未来に進みたいと思います。
窓を開けば、そのぶん光は射してくる。
(。 •᎑•  。)♪


しみずわかな