今ではわたしの一部はすっかり仙台に染まり、ほとんど郷里のような存在になっている。
とは言っても、わたしが知る仙台は本当に狭い。
それは毎度、同じ用件で同じルートをたどり同じ場所に通う、そういう関係の土地だったからだ。
通うに留まらず移り住んでいた五年のあいだにさえ、ほとんどそれは拡がらなかった(拡げられなかった、というほうが正しいけれども)
その代わり、仙台に於けるわたしの感情は目まぐるしく豊かに溢れている。
仙台に関する知識や滞在時間と、そこで生み出されたわたしの感情を、もし比べることが出来たなら
もう断然、想いの比重が勝るに違いない。
昔から頻繁に通る道がある。
街の中心部を貫く大通りで、今も月に一度は必ず歩く道だ。
杜の都と称するくらいで仙台にはわりと緑が多い。
もう何年前になるだろう、季節は秋から冬に向かう頃だったと思う。
いつにも増して物憂い気分で、自分という命の存在、役割、先の見えない未来などを頭のなかで掻き回していた。
不意に目に飛び込んできたそれは一本の植木だったが、主体となっていたはずの部分は伐採され、枝(だった)と思しき一本が、後を継ぐように空へ伸びていた。
手入れをされてまだ間もなかったらしく、その姿はあまりに生々しかった。
わたしは専ら切り株のほうに目を奪われていたのだが、想いを繋げるなら我が身など安易に棄てられる、と云うような佇まいだった。
哀しさと厳しさのなかに、自然という大きなちからに身を委ねる微笑みを感じた。
その日、わたしはその切り株に泣きべそで励まされたのだった。
先日。
芽吹きの季節が一段落し、緑は徐々に力強くなってゆく。
例によって通りを歩いていたわたしは、歩みを止めた。
これまでも何度か気になって目を配っていたのだが、見付けることはなかった。もしかしたらうまく成長することが出来ずに掘り起こされてしまったかもしれないと感じもしており、確かめるのが徐々に躊躇われるようになっていた。
けれど、その日はなんとなく、目にした一本がそれかもしれないと根拠もなく思えて近付いてみた。
とにかく確かめる術はひとつだった。
そっと根元を窺うと、そこにはあれから数年間の年月を経た、切り株の姿があった。
あのときの生々しさは無く、古老のような穏やかさと懐かしさを醸していた。
そして、彼が託した枝には初夏の瑞々しい青葉が、気持ち良さげに揺れていた。
時間は流れるのだ。
傷は癒える。
あの日のわたしは今のわたしに繋がるけれど、決して同じではない。
あの日の傷は愛しい思い出となり、今は新たな挑戦を続けている。
空に向かって梢を伸ばし続けている。
見て分かるほどのスピードはない。
日々の変化はほとんど感じられない。
けれども
生きている限り、わたしの梢は伸び続ける。
切り株はますます朽ちて糧となり、受け継いだ枝は幹として逞しく成長するだろう。
誰も気付かなくても
朽ちて消えてしまっても
その事実、
その想いをどこかに遺せたなら
その命は繋がると思う。
その命は幸せだと思う。
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