お隣の国の近現代史を意識しつつ映画やドラマを眺めようと思いついたのですが、想像以上に難しく、全く進んでおりません。

尚、今回もネタバレ無しを心掛けたいと思います。

 

前回まで、

 

引き続き、「国際市場で逢いましょう (原題; 国際市場)」 ( 2014 )がお題。

画像はタイトル画面に写る、現在の釜山。

 

1950 年 6 月 25 日、朝鮮戦争( 6・25 戦争)が勃発。

6 月 28 日、「朝鮮人民軍」(以下; 北朝鮮軍)がソウルを占領。

 

9 月 28 日 、「韓国軍・米軍を主体とする国連軍」(以下; 国連軍)がソウルを奪還。

更に 38 度線を越えて北進。

10 月 20 日、平壌を制圧。

 

朝鮮人民軍最高司令官(当時)金日成(キム・イルスン)専用車、ソ連製「 ZIS-110 リムジン」。

1950 年 10 月 22 日、国連軍が平壌の北約 100 km の清川江(ちょんちょんがん)付近で鹵獲(ろかく)。

10 月 11 日頃、平壌を密かに脱出した際、渡河出来なかったものとみられる。

 

同じ頃、国連軍の 38 度線越えを容認出来ない中国とソ連が、本格介入をを決意。

ソ連が中国を経由して供与した「 T-34-85 中戦車」。

 

12 月 5 日、「ソ連支援を得た中国軍・北朝鮮軍協働軍」(以下; 中朝軍)が平壌を奪還。

 

ここから映画の中に入ります。

 

1950 年 12 月 23 日、

現在の「朝鮮民主主義人民共和国」(以下; 北朝鮮/DPRK )、咸鏡南道 興南(はむぎょんなむど ふんなむ)に暮らすユン家が、避難のため興南港にやって来ます。

 

しかし、港は既に避難民で溢れ返っていました。

 

この混乱の中、ユン家の父ジンギュ(チョン・ジニョン)と長女マクスン(シン・リナ)が、他の家族と離れ離れに。

母パク・キルレ(チャン・ヨンナム)と三人の子どもたちは、失郷民(しりゃんみん)として釜山の国際市場で暮らし始めます。

 

1951 年 1 月 4 日、中朝軍がソウルを再占領。

同年 3 月 15 日、態勢を立て直した国連軍がソウルを再度奪還。

やがて戦線は 38 度線付近で膠着状態に陥ります。

 

1953 年 7 月 27 日、休戦協定が発効。

400 万人とも 600 万人とも-うち 2/3 が民間人とされる、とてつもない犠牲者を出した戦争が停止し、38 度線に沿う軍事境界線 [ MDL ( Military Demarcation Line ) ] での南北分断が確定します。

 

不安定な状況は停戦後も続きます。
李承晩(イ・スンマン)大統領は、強気な発言を続け国際社会の不興を買い、国内的には独裁を強化した強引な政権運営を図ります。

1960 年、悪化する一方の状況への不満が、民衆蜂起の形で爆発。
「四月革命」( 4・19 革命)により、李承晩は退陣の後亡命。

翌 1961 年 5 月 16 日、軍事クーデタが勃発し、朴正煕(パク・チョンヒ)を頂点とする軍事独裁体制が確立。( 5・16 軍事クーデタ)
軍事政権は、国内の独裁体制は維持しつつ対外的には現実路線を取り、後に「漢江(はんがん)の奇跡」 *2 と呼ばれる経済発展を実現します。

*2 ; 「漢江の奇跡」
敗戦国、西ドイツの戦後の急速な経済発展を表す「ライン川の奇跡」になぞらえた、韓国の急速な経済発展を指す用語。

 

漢江沿いを走る自動車道路と、対岸の整然とした江南(かんなむ)の街並み。

「漢江の奇跡」を象徴する風景です。

 

 

映画に戻り、

1963 年、ユン家の長男ドクス(左 ファン・ジョンミン) 24 歳は、家族を養うため、西ドイツ(当時)の炭鉱に出稼ぎ *3 に行く事を決心します。

*3 ; 「西ドイツの炭鉱に出稼ぎ」
西ドイツは「ライン川の奇跡」(上記 *2 参照)による労働者不足対策として、特に重労働で嫌われる炭鉱労働者を海外から募集。

産業発展に必須の電力確保には、発電用石炭の増産が欠かせなかった。

朝鮮戦争による世界的な需要の増大が大きく寄与した「ライン川の奇跡」。
更に「ライン川の奇跡」を契機とする「漢江の奇跡」。何と言うか時代は巡る…

 

西ドイツへの労働者派遣は政府主導の事業で、当時の外貨獲得の貴重な手段。

この契約の締結も、朴正煕大統領の取る現実路線によるものでした。

 

1963 年から 1977 年にかけ、炭鉱労働者 7,900 名、看護婦 11,000 名を中心とする、延べ約 2 万人 *4 が西ドイツに渡ります。

*4 ; 全く余計な事ですが Wikipedia に「 7 万 9000 人の鉱夫を派独」との記載があります。

これは元記事の桁間違いと思われ、実際はその他技能工を加えた総計が延べ約 2 万人。

 

1963 年 12 月、ドクスが参加する西ドイツ派遣炭鉱労働者第 1 陣は、エールフランスのチャーター便でデュッセルドルフへと向かいます。

これは当時の新聞で確認可能な事実。

 

ところが、この映画で非常に残念なシーン。

ドクスの搭乗するエールフランス機が B747-400 、しかも 2009 年からの新塗装。

画面から確認する限り、おそらく 1992 年就航の F-GEXB 号機。

 

ここは是非とも、1960 年代塗装の B707 にして欲しかった(^^ゞ

もしくはルフトハンザか…

 

1973年 *5 、西ドイツ派遣から 10 年。

34 歳になったドクスが、今度は戦時下の南ベトナム(当時)に出稼ぎに行くと言い出します。

*5 ; 1973 年の南ベトナム行きは映画上のフィクションで実際にはあり得ない。理由は後述。

 

ドクスの妻オ・ヨンジャ(左 キム・ユンジン)は猛反対。

元西ドイツ派遣看護婦なので海外での苦労を知る上、家族のために自分を犠牲にするのはもう止めて欲しいのです。

 

深刻な夫婦げんかの最中に、妙な姿勢の訳。

18:00 になり、国旗降納式が始まったのです。

 

1960 ~ 80 年代、軍事政権下の韓国では、18:00 (冬期 17:00 )になると一斉に国歌が流され、降納される国旗に敬意を表す-敬礼または直立不動の義務がありました。

夫婦げんかだって、一時中断するしかありません。

 

余談ですが、この映画を観た朴槿恵(パク・クネ)前大統領が、国旗降納儀礼への郷愁とも取れる発言をして、物議をかもしました。

 

この儀礼を創設したのが朴槿恵の父、軍事クーデタにより 1961 年から 79 年まで政権トップの座にいた朴正煕なので、すわ軍事政権容認かと余計ざわついた訳です。

 

国旗/国歌が効果的に登場する場面が、実はもう 1 か所。

1963 年、西ドイツ派遣炭鉱労働者選考の際、ドクスの願書には、出身地が「咸鏡南道 興南」と記載されています。

 

「北」出身を理由に難色を示す面接官の態度を一変させる必殺技が…

 

願書に朱書された「愛国心透徹」の文字、更にくっきり合格印。

 

国旗/国歌に対し、かなり斜に構えた描写と見えるのですが、朴槿恵前大統領のように郷愁を感じる人もいるのだなと思います。

 

 

上記 *5 、1973 年の南ベトナム行きがフィクションの訳。

 

韓国軍が、実際にベトナム戦争に参戦したのは 1964 ~ 73 年。
1973 年 3 月には撤収を完了しています。


派兵数が特に多かったのが 1967 ~ 72 年の 6 年間。

民間人派遣もそれに合わせ、1966 ~ 71 年に約 5 万人。
 

事実に合わせると、1967 年初頭に西ドイツから釜山に戻ったドクスが、1968 ~ 69 年、すぐに南ベトナムに行く事になってしまいます(任期が概ね 2 年)。

 

ついでに、南ベトナムでの企業名は架空の「大韓商事」ですが、大韓航空を擁する韓進(はんじん)グループがモデルと思われます。

韓進グループは、ベトナム戦争時の物資輸送や設営業務で急成長します。

画像は 1969 年 12 月 11 日に起きた「大韓航空機ハイジャック事件」。

(写真はおそらく同型機)

 

大韓航空国内線の YS-11 ( HL5208 ) がハイジャックされ、北朝鮮の宣徳飛行場に強制着陸。

39 名の乗客は帰還しますが、犯人を除く 7 名の乗客と 4 名の乗員が未だ帰還出来ず。

また、YS-11 ( HL5208 )も行方不明となったまま。

 

1971 年 9 月 15 日、南ベトナムから帰国した派遣労働者が、未払い賃金の支払いを求め、大韓航空ビルに集結。

ロビーを一時占拠、多数の逮捕者を出します。(大韓航空ビル占拠事件)

 

 

1964 年、米国の本格介入により性格が一変したベトナム戦争。

その構図を辿ると、朝鮮戦争から何も学ばなかった「アメリカ」が垣間見えます。

まあ、それはまた別のお話。

ベトナム戦争を扱う映画は膨大な数がありますが、1969 年、戦略的・戦術的価値を見出せぬまま眼前の丘をただ奪い合う…

実話に基づく米国映画「ハンバーガー・ヒル ( Hamburger Hill )」( 1987 )を挙げてみました。

 

1953年、朝鮮戦争末期の似たような状況を描く、やはり実話に基づく「勝利なき戦い ( Pork Chop Hill )」( 1959 )という映画があります。

 

「ポークチョップ」に最後にもたらされる意味と福音が、「ハンバーガー」には最後まで訪れません。

「ベトナム」を知る前と後の差かと、溜息が出そうになります。

 

ベトナム戦争において韓国軍は、米軍に次ぐ規模でした。

参戦期間の常駐兵力が最大 5 万人、延べ約 30 万人( 32 万人とも)を派兵。

ベトナムにいたかもしれない、M113 型装甲兵員輸送車。

 

この参戦は派兵による装備の近代化、米軍による駐留経費負担、見返り援助の約束など、大義よりも経済的側面を優先した、いわば「軍人を輸出して外貨を稼ぐ」ような政策でした。

朴正煕の冷徹な計算とも言えそうです。

 

ベトナム派兵が終了する 1970 年代から、中東産油国への建設労働者派遣が主流に。

その数は 1974 ~ 86 年に延べ約 100 万人。

突出して数が多いのは、工事の進捗状況に合わせた短期滞在が多いため。

 

現代のドラマにも「中東への出稼ぎ」が出てくるのは、この頃の名残です。

 

 

韓国映画でベトナム戦争といえば、

「ラブストーリー (原題; クラシック)」( 2003 )が思い出されます。

“愛の不時着” ソン・イェジンが、娘ジヘと母ジュヒの若い時代の二役を演じ、涙を誘います。

 

流れるのは、キム・グァンソクの「苦しすぎる愛は愛ではなかったものを」。

このお話を象徴するような曲です。

 

お話はざっとこんな感じ。

 

ある日、大学生のジヘ(ソン・イェジン)が見つけた古い日記と手紙。

そこに綴られていたのは、自分の知らない母ジュヒの若い頃。

とても「クラシックな初恋」。

 

1960 年代、偶然出逢った、ジュナ(チョ・スンウ)とジュヒ(ソン・イェジン 二役)。

空き家の探検や突然の「夕立」。

楽しいひと時を過ごすふたりでしたが…

 

そうそう、初恋の象徴といえば何といっても「初雪」ですが、「クラシックな初恋」にはもうひとつ、「夕立」が欠かせません。

 

ドラマ「秋の童話」( 2000 KBS2 )序盤の雨宿りシーン。

 

「夕立」モチーフは、黄順元(ファン・スンウォン)が 1952 年に発表した短編小説「夕立ち」に由来するそうです。

中学校の教科書に載るほど知られた作品で、知らない人はいないとか。

 

初雪以外の初恋要素を、少し前に取り上げました。

 

 

いかんいかん、すっかり脇道にそれてしまった。

元に戻り、改めて主な海外派遣を整理します(全て延べ人数)。

 

1963 ~ 77 年、西ドイツ労働者派遣、約 2 万人

1964 ~ 73 年、ベトナム派兵、約 30 万人( 32 万人とも、多数派兵は 1967 ~ 72 年)

1966 ~ 71 年、南ベトナム労働者派遣、約 5 万人

1974 ~ 86 年、中東産油国労働者派遣、約 100 万人(短期滞在が主)

 

天然資源が豊富で、日本統治時代に生産設備が整備された北朝鮮に対し、穀倉地帯が多く天然資源に乏しい韓国最大の輸出品は、まさしく人だったという訳です。

これが高い教育熱にもつながるようです。

 

ソウル中心部、汝矣島(よいど)に建つ、金色に輝く63ビルディング。

1985 年に竣工し、現在のソウルを象徴するランドマークです。

 

日本でも同じですが、高度な発展は良い事ばかりだろうかなんて、ふと思う瞬間があります。

まあそれも、豊かさを当然とする繰り言だと、承知しているつもりではありますが…

 

はてさて、これでようやく ’70 年代半ば。

「♪ 君の行く道は 果てしなく遠い… 」とか歌い出したくなりそうです。

 

つづけられる、のか?