HARIMA 随想
「ジャンプ讃歌」
…………スキー・ジャンプという競技に、私が惹かれたのは。
一体、何歳の頃からだったろう…………
ハッキリ覚えているのは、1 9 8 0 年。
1 2 歳の時、米国で開催された冬季五輪レークプラシッド大会。
T V中継で初めて見た、冬季オリンピック。
アルペンスキーでは、スェーデンの帝王インゲマル・ステンマルクが。
スピードスケートでは、5 冠に輝いた米国の 「 本業お医者様 」 エリク・ハイデンが。
圧倒的強さを見せつけていたのを覚えている。
しかし。
子供だった私の心を鷲掴みにした種目、それが、ジャンプだった。
日本のジャンプ陣は、笠谷幸生選手の金メダルはじめ 「 第一次日の丸飛行隊 」 がメダルを独占した1 9 7 2 年の札幌五輪以来、思うような成績が出ず、苦しい時期が続いていた。
そこへ新たに。
日の丸飛行隊復活の狼煙をレークプラシッドで上げたのが、7 0 m 級 ( 現在のノーマルヒル )で 銀メダルを獲得した八木弘和選手。
同 4 位入賞を果たした秋元正博選手。
特に私には、銀メダルをとった八木弘和選手の美しい飛型が目に焼きついた。
憧れた。
とにかく、ジャンプこそが一番カッコいい競技に見えた。
より、高く!
より、美しく!
より、遠くへ!
自分も、八木選手のようになりたい!
ジャンプをやってみたい!
しかし当時小学6年生だった私は既にクロスカントリースキー・クラブに選手として入っており、併設されていたジャンプ・クラブへの転向は叶わなかった。
しかも、この頃の我が地域の小学校のスキージャンプは現在のように本格的ではなく、ゲレンデの真ん中に雪を固めて即席のシャンツェを作り、それを普通のアルペン用板とブーツで 1 5 m 程の飛距離を競う所謂 「 プレ・ジャンプ 」 でしかなかった。
ならば、中学ではジャンプ部に入ろう!
「 俺、ジャンプ部に入る!! 」
そう家族に言いはなった途端、猛反発を食らった。
「危険過ぎる」
「おまえ、頭から突っ込んで、ケガで一生全身麻痺になってもいいのか!?」
「他の部活にしろ」
当時の私には家族の反対を押し切る程のエネルギーは無かったし、家族の理解や支援も得られない部活に入る気もしなかった。
結果、ジャンプ部入部は断念。
他のスポーツに全く興味すら持てなかった為、得意だった音楽でも、と吹奏楽部に。
中学には「強い」アルペン部もあった。
しかし意外かもしれないが当時は 「 単にスピードに酔った不良の巣窟 」だったので論外(笑)。
クロスカントリー部も勿論あったが既に小学生時代に味わった、その余りの過酷さがトラウマとなり 「 運動部は小学校で引退!! 」 と結論付けさせた ( 笑 )。
………しかしながら。
その後もずっと、私の半生の中でスキージャンプへの憧れは生き続け。
いや、ジャンプ大会のTV放映があると欠かさず目を通し。
全国大会に出場する、地元中学生・高校生達の活躍を見守り。
毎年毎年、地元のシャンツェへと足を運びつつ、選手達の飛躍を見つめ続けた日々…………年数を重ねた。
今。
ジャンプだけでなく、アルペン、クロスカントリー e t c . …………スキー競技に夢を託す、全ての人達の味方でありたいと願う私がいる。
雪国に生まれ育ったからこそ、生まれた情熱をどうか消さないで欲しいと。
願う私がいる。
これから御披露する、今回の我が地元ジャンプ大会 「 第25回 魚沼ライオンズクラブ杯争奪ジャンプ大会 」 に出場した選手達は。
今、この時も。
夢と情熱を2枚の板に託し、より美しく。
より遠くへ…………遠い高みの空を舞う為に。
しっかりと人生を歩み続けている。




































