・・・実は今回の家族旅行の最初の目的地は、米山山荘から約30km西にある上越市・春日山(かすがやま)でした。
ここは言わずと知れた、越後の生んだ戦国武将・上杉謙信(うえすぎ・けんしん)の居城、春日山城の址地です。
ここは山全体が城となっており、全てを歩き廻るにはこの日はあまりに猛暑過ぎた為、謙信公をお祀りする「春日山神社」に参拝するのみとしましたが・・・・・・
この時期毎年行われる「謙信公祭」を目前とした上越市は、ちょうどお祭りムード一色!!
春日山だけでなく、市内全てにこのような幟が立ち並んでいました。
謙信公祭とは、この地が生んだ「義に生きた武将」とされる上杉謙信の遺徳を讃える為、大正時代から続いているお祭りです。
<詳細>
http://www.niigata-kankou.or.jp/joetsu/kanko/event/joetsu/cA4359.html
http://www.joetsutj.com/archives/51730440.html
・・・・よく、歴史物雑誌や書籍の戦国特集に書かれていることですが
「上杉謙信は戦の天才でありながら、他の有名な戦国武将と違って天下を目指そうとしなかったのは何故か?」
「領土を広げる欲が見られなかったのは何故か?」
「何の為に戦をしたのか?」
「謙信の掲げた義とは?」
という疑問符を見つけます。
上杉謙信は、戦国という秩序の乱れまくっていた時代、武力で社会を支配すること、即ち「略奪」「無差別殺戮」が正当化されてしまっていた当時の日本に於いて「警察」であろうとしたのです。
一方で国主として越後の国を豊かにする為に彼が用いた力は武力による略奪ではなく、深い雪が生み出す豊富な水が作る米をはじめとした農業。日本海の港を活用し、栄えさせた商業でした。
謙信公の姿勢とは
「武力の本来の役割とは人を警護することであり、人を支配することでは無い」
という一念でした。
これは、現代にも通じることではないでしょうか。
駐車場からこの高い、高い階段を息を切らせながら登る(汗)と・・・・・・・
鳥居付近では、御覧の「家臣」達が、観光・参拝客をガイドしていました。
そこで・・・・・・
御屋形様である謙信公の御前にて、直江兼続と同じ「上田衆(当時魚沼に居た家臣衆)」である私も、皆と「勝どき」をあげてきました!!
神社前に連なる土産物売店も、このように上杉グッズに溢れています。
お祭りの二日目には市内で上杉軍勢の武者行列とともに、川中島の合戦を再現した壮大なパフォーマンスが繰り広げられます。
2007年NHK大河ドラマ「風林火山」で上杉謙信役を演じたミュージシャンで俳優のGACKT(ガクト)さんは、この謙信公祭に過去3回謙信公役で出演してもらっていて、今年も4回目の謙信公を演じます。
GACKT(ガクト)さん自身、上杉謙信という武将の生き方に共感を得て頂いているとのことで、上越市からの出演要請にも毎回快く受けて下さっているとのことです。
・・・・・・社会を安定させるには、しっかりとした行政(幕府・朝廷)が必要であり、それら行政によって平和に運営されるべき社会を武力で乱そうとする者を「取り締まる」役目を謙信公自らが果たそうとした。
であるから、単に一武将の欲として領土を拡大しようとしたのではなく、朝廷から関東管領(警視総監)の役目を許可された上で、関東で猛威をふるっていた相模の北条氏を攻め、信濃の国を侵略していた武田氏を迎え撃ち、北陸を攻め天下を武力で支配し将軍を追放した織田氏を迎え撃った。
そして、それらの戦全てが他国を我が物にする為でなく、他国の武将らを「滅ぼす」のではなく「諫める」為に、そして幕府を復権させ秩序を回復させる為に無敵の戦をし、戦を終えると国主としての責任を果たす為、速やかに越後へ帰還した・・・・・・
そのように考えると前述した疑問も、たちどころに消え失せるかと思います。
私自身が上杉謙信という人物に対して、単に地元だからではないリスペクトを感じるのは、彼の掲げた「人間としての在り方」を強く感じるからなのです。
「義」とは、いかなる場合でも人が人であり続けることを忘れないことだと、私は謙信公から学びました。
そして、孤軍奮闘する中でも、この越後の民達の生活を守り抜いて頂いたことに感謝しています。






