10月18日 14:24
JR石打駅下りホームに入る上越線普通列車・115系。
バックにそびえる山は石打丸山スキー場。
昔、昔。
新幹線・高速道路はおろか、自動車も普及しておらず、道も舗装していなかった昭和初期。
新潟県・魚沼エリアには、既にスキー場がありました。
いまからちょうど100年前。同じ新潟県内上越・高田に一人のオーストリア人がやってきて、我が国で初めて二枚の板で雪原を自由に駆け回る術を授けました。
それから間もなく、こちら魚沼の郷にもその術が伝わりました。
更にそれから程なくして、一人の男が夢を抱き、自らの職を捨てて設営に人生を捧げた鉄道が関東平野と越後・魚沼を結びました。
その男の名は、岡村 貢(おかむら・みつぎ1836~1922)。石打村(現:南魚沼市石打)の住民でした。
貢の活躍した明治時代当時の魚沼エリアは、まさに陸の孤島というばかりか、住民の生活も考え方も江戸時代とほとんど変わらない状態でした。
彼は南魚沼郡長(現在でいう南魚沼市長)の職を退いて、文化や生活様式の発展・活性化の為に地域の人達に鉄道の重要性を説くことに専念。
明治中期~大正末期に亡くなるまでの彼の半生は、関東平野から険しい三国山脈を貫き越後・日本海側を結ぶ本州横断鉄道「上越線」の設営に全て尽くされたと言っても過言ではありませんでした。
しかし当時の土木技術からして、雪深い上越国境の山脈を貫いたトンネルまで造ることなど夢のまた夢とされ「馬鹿げた話」と相手にされなかったと聞きます。
昭和4年の上越国境・清水トンネル貫通。同6年の上越線全線開通を見ずして、岡村貢は大正11年に87歳の生涯を終えてしまいます。
晩年の彼の私財は、上越線設営の為に全て注がれた為ほとんど無一文だったとのことです。
「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国だった」
この出だしで始まる川端康成の小説も、岡村貢の存在無くして有り得なかったと言えます。
また私は、上越線の開通無くして上越新幹線も関越自動車道も無かったとも思えます。
さらには、この魚沼エリアの発展も無かったし、私もこうして地元へUターンもしていなかったでしょう。
それ以前に首都圏の学校に進学など考えられなかったはずです。
生きているうちに、上越線が関東と越後を結ぶ姿を見ることが出来ず世を去った、岡村貢。
しかし、彼の志は死後ほどなくして花開くこととなります。
魚沼エリアのスキー場の開設。
それはまさに彼が思い描いていた、地域の文化・経済の発展、他地域との交流を具視化したものでした。
現在のように自家用車で日帰りスキーまで出来る時代ではなかった当時、スキー客の足は鉄道でした。
上越線では戦後さらに「スキー臨時列車」を発動。お乗りになられたという方も多いのではないでしょうか。
慣れない雪道を遠路ドライブする必要無く、どなたでも気軽にスキーを楽しんで頂ける魚沼エリアの老舗のスキー場は、ほとんどが上越線の駅から歩いていける場所、宿の関係者が送迎しやすい場所に作られました。
皆さん。この冬、魚沼エリアにスキーでお越しの際は、ゲレンデから眼下の市街地を見下ろしてみて下さい。
麓には、今でもこの一人の男の夢・魚沼スキーを育んだ鉄道、上越線の姿が見えることでしょう。
私はこの冬、スキー・ネタとともに「雪の鉄道」ネタをたくさん載せたいと考えています。
なぜなら、ここでは「切っても切れない」からです。
JR石打駅前に建つ、岡村貢翁の銅像。


