数え切れない「ありがとう」。 | 風・雪・海・空。ハインケルーパーの独り言

風・雪・海・空。ハインケルーパーの独り言

風・雪・海・空。


その軽やかさと勢い、風の如く。

その重きこと・染み渡ること、雪の如く。

その思慮深きこと、海の如く。

その志高きこと、空の如し。



そんなブログを目指して行きたい。


ハインケルーパーの独り言

ここは私が毎日通勤で通る県道の、小千谷市と長岡市の境目くらいの妙見(みょうけん)という所です。


正面に切り立った山が見えます。

この山は、実は6年前にはありませんでした。


今から6年前の10月23日の土曜日、午後5時55分。


新潟県中越地震、発生。


その時、魚沼市の自宅へ帰る途中にここを通った幼い姉と弟と母親が、突然崩れてきたこの山と岩に車ごと飲み込まれました。



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こちらがもともとの県道。地震発生当時からほぼ手つかずのまま残されています。

道は山崩れで根こそぎえぐり取られ、瓦礫の中に消えたのです。



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この山崩れの中に生き埋めにされた親子。

救出の様子はTV中継され、東京都から出動してこられた「ハイパー・レスキュー隊」の方々によって、幼い弟(当時3歳)の命が救われました。


当日、たまたま私は仕事が非番であった為事なきを得ましたが、あの時間帯、もし出勤していれば私も間違いなくこの瓦礫に飲み込まれていました。



一方、先日御紹介した山古志村(現:長岡市)をはじめ、震源地である北魚沼郡川口町(同じく現:長岡市)も甚大な被害となりました。


震源地の川口町は、マグニチュード7・震度7の直下型地震を受けました。


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地震発生二週間後の川口町市街地。(当時HARIMAYA撮影)


国道17号線、関越自動車道などは道路の破壊や地割れ、トンネル崩落などにより全て遮断され川口町は「陸の孤島」となってしまいました。


水・電気・ガスなど、ライフ・ラインも全てカットされていました。

道路が破壊された為、流通が途絶え、食料も入ってきません。

赤ちゃんのミルクも底を尽きました。

上空をひっきりなしに飛ぶヘリコプターは、救援の為ではなく、マスコミの取材ヘリばかりでした。


住民の命が危ういくらいになったころ、ようやく一部の道路が開通をし、救援の為に陸上自衛隊の皆さんが入ってきました。

私自身も自分の看ている印刷機やコピー機がこの町に多く入っていた為、ここに行かなければなりませんでした。

しかし、正直行きたくはありませんでした。


怖かったのです。本当に、怖かった。


震度7の本震を受けた震源地。その後も毎時間のように震度5以上の強い余震が続いていました。

コピー機が設置してある農協は、崖の下を通る山道を通過しなければ行けませんでした。

いつ、何処が崩れてもおかしくは無い。

誰も、身の安全を保証してはくれない。

私だって命は惜しい。

家族だって居る。


町全体にきな臭い匂いが充満していました。

学校のグラウンドなど、広い場所は全て自衛隊より貸し出された深緑色のテントにおびただしく埋め尽くされ、あたかも焼け出された人々のごとく、そこに住民の皆さんが肩を寄せ合っていました。


「戦場」とは、こういう場所なのだろうか?

私は震え上がっていました。


背筋が寒くなる思いでコピー機の設置場所である山奥の農協、印刷機のある小学校に辿り着いた時、私は息を飲みました。

小学校の職員玄関脇の狭い用務員室に、乳飲み子を抱えたお母さんが家族と共に身を寄せ合っていたのです。

そこは、まさに震源地の真上でした。


涙が出ました。


この人達は「怖い」なんて言っていられない。

私のように、怖くても逃げる場所なんて、無い。


この人々を見たら、私も「怖い」なんて言えなくなりました。


それから私は、この川口町の学校や農協、高速のサービス・エリアを、余震の絶えないに関わらず車で廻り続けました。

日が進むにつれ、見慣れない県外ナンバーの給水車や、食料等物資を積んだ車、ボランティアの方々を乗せた車が次々とここに来てくれるようになりました。

朝・昼・晩と、役場前に張られた自衛隊キャンプや学校グランドでは、隊員皆さんや多くのボランティア皆さんからの炊き出しの温かいご飯が毎日人々に配られました。


多くの人々が家を失い、または家族を失った方もおられました。

学校は全て避難所となり、グランドはほとんど仮説住宅の建設場所となり、子供達は学校へもしばらく行けなくなりました。

勿論、仕事も再開などできませんでした。



しかし、最後までこの町に残り、耐えてきた人々。


あれから6年の月日が流れました。


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毎年10月23日が近づくと、越後川口の家々にはこんな黄色い布が表に張り出されます。



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よく我慢強いと言われる新潟県人ですが、この大地震は耐えきれるものではありませんでした。


それを耐えてこれたのは、全国の名も知らぬ多くの方々からの温かい励ましがあったからなのです。

ここ川口をはじめ、越後の人々はそれを今でも決して忘れてはいません。

この「黄色いハンカチ」は、そうした気持ちを越後川口の人々が表したものです。


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地震により家の下敷きになり亡くなった児童さんの命を思い、小学校の先生とともに私も泣いたことを思い出します。


でも、犠牲となられた方々の分まで強く生きて行こうと皆さんは決められました。


地震は誰のせいでもありません。

大自然が、地球が本性を少し見せただけなのかもしれません。

ですから、また何時、何処で起こるかわかりません。


しかし、このような災害を前にして如何に人は人として生きていけるか?試されているような気が私はします。

人の温かさとは、人生とは何だろう。

生きていけることに感謝すること。

そうした大事なことを考えさせられる気がします。


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今、私は数え切れない程の「ありがとう」と共に、ここにいます。




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