悲劇の城 | 風・雪・海・空。ハインケルーパーの独り言

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風・雪・海・空。


その軽やかさと勢い、風の如く。

その重きこと・染み渡ること、雪の如く。

その思慮深きこと、海の如く。

その志高きこと、空の如し。



そんなブログを目指して行きたい。

下倉山城。(したくらやま・じょう:新潟県魚沼市) ※別称・下倉城(したくら・じょう)


戦国時代、上杉氏と入れ替わり越後を支配した、堀(ほり)氏の家臣の城です。

城下を流れる魚野川と破間川(あぶるま・がわ)の合流を天然の堀として活用し、また、上州へ向かう道と会津へ向かう道の丁度分岐点に位置します。

築城年や築城者は不明です。




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(下倉山城祉全景)



関白・豊臣秀吉の命により、越後から会津へ移封を命じられた上杉景勝と直江兼続ら家臣達。

その後を継いで越後に入ったのが、堀秀治(ほり・ひではる)ら堀氏一族でした。

その中でも、堀直寄(なおより)は上田庄(現在の魚沼エリア)の支配を受け持つことになりましたが、堀氏はそれまで上杉氏が行っていた領民との融和政策から一変、 検地をやり直し大変厳しい年貢を課す等、領民を圧迫するやり方を行いました。

その過酷さは、上田庄から去る領民が後を絶たなくなる程でした。


そうした中、1600年に徳川家康による上杉討伐、石田三成はじめ上杉の盟友との対立が深まり、世に言う関ヶ原の戦いが始まろうとします。

堀氏が徳川方に味方することとなり、会津に移封されていた旧越後上田衆(上杉の家臣)の武将の一部が、かつての領地を取り戻そうと越後・会津の国境を越えて攻め入ります。

それを知り、かつての領主を慕い、また圧政の苦しみから掘氏への不満を募らせていた上田庄の領民達は一斉蜂起し、勇んで旧上田衆軍勢に加勢。堀氏討伐ののろしを上げました。

これを俗に「越後一揆」と呼びます。


旧上田衆武人と上田庄の領民達はここに結託し、途中の上条城を攻め落とした後、堀氏の家臣小倉主膳(おぐら・しゅぜん)の居城であるこの下倉山を7,000の軍勢で包囲。

主膳は年若き嫡男と共に、抱えの家臣だけでこの軍勢と果敢に攻防を繰り広げましたが多勢に無勢、戦中に嫡男を失い、自らも最後までこの城を守ろうと孤軍奮闘しましたが、領民の槍先が主膳の腹を貫通、息絶えます。


こうして、下倉山城は落城しました。

その後、上杉景勝に代わり坂戸城主となっていた堀直寄が駆けつけ、結果的に一揆勢は鎮圧されます。

しかし、この一件により家臣父子を領民の反乱によって失った事実に直寄は驚愕するとともに、それまで領民達に対し圧政を強いてきたことを心より反省し、関ヶ原後は一転して領民に柔軟な政策を行う決意をし、上田庄を去って行った領民達にも戻って来て貰えるよう呼びかけたといいます。

小倉氏がこの地で滅ぶと直ちに下倉山城は廃城となり、以来誰一人この跡地に住んだ者はいません。


それにしても、故郷を遠く離れ、慣れない雪国の越後・上田庄で主の命に従い懸命に働いたであろう小倉氏。

その末路を思いながらこの城祉を見ると、上杉を慕う上田庄の領民の気持ちも又分かるだけに、私は胸が痛みます・・・・・・・・。





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(頂上の平らな杉林部分が本丸屋敷跡)


現在の下倉山城祉には曲輪、空堀、土塁、井戸跡、池などの遺構が確認されていますが、先の新潟県中越地震以来安全確保が万全でない為か登山道の整備がされておらず、一般の立ち入りはほぼ出来ない状態です。

ただ、遺構そのものの保存状態は良好の様子で、早期の再整備が望まれる所です。


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(城祉のすぐ下を走る国道17号線脇には、このような石碑が建ちます)


アクセス

●JR上越線「越後堀之内駅」からバスで10分。または「小出駅」から徒歩15分。
●関越自動車道「堀之内IC」または「小出IC」から車で5分(国道17号線沿い)。



ハインケルーパーの独り言
魚沼市羽根川通り沿いの菓子司・山喜屋(やまきや)さんの、銘菓「下倉城」。

丸い姿とクリームが冬の下倉山をイメージさせます。

口に入るとサワークリームの爽やかな風味が一杯に広がり、クルミを練り込んだ特製の餡もさっぱりとした良い甘みです。

戦国の悲劇を癒すかのような爽やかさの御菓子です。

※一ヶ¥150也