ここまでだとは思わなかった。
ここまで間違った固定概念が人間をダメにさせるとは思わなかった。
半年ほど前から私は猛烈にたい焼きが食べたくなった。
できれば中身はカスタードがいい。
餡子ならばこし餡が好ましい。
しかし、私の住んでいる家の周りにたい焼きを売っているところがないことは知っていた。
そして、近くのスーパーのお惣菜売り場に「たい焼き」として売られているものはたい焼きとは見なさない。
たい焼きはな、たい焼きっていうのはな、皮はパリパリもしくはフワフワで、中身はトロッとしているそのギャップのコラボレーションを楽しむものであって、あんなモサモサとパサパサが一緒になったところで何を楽しめというのか!パリパリフワフワトロトロのたい焼きがどれほど美味しいのかよく分からせるための比較なのか!
ならばそれはそれで、「たい焼き(比較用)」と提示するのがお客への優しさ!サービス精神というものじゃないのか!
私がどれほど…どれほどその「たい焼き」と表示された実は「たい焼き(比較用)」を楽しみにして、レンジで温めた後に皮がパリパリになるようにトースターで温めたことか!
そういうわけで、私の住んでいる周りにたい焼きはないのだ。
でも、私もまだ21歳なので、休みの日の行動範囲は広いわけである。
愛知県をあっちこっちするのである。
最近は家にいることが多いが、それは別にお金を使いたくないとかそんなんじゃないのである。
だから別に、周りにたい焼きが存在しなくても出歩いていればいつかは巡り会えるであろう!
というのが約半年前の私の見解であった。
しかしそれから3ヶ月
私はいろいろなところにいった。
名古屋だったり名古屋だったり大府だったり名古屋だったり。
どういうことでしょう?
私の目にたい焼きのあの美しいフォルムが映ることが一度もないのです。
たい焼きはどこですか?
いえいえ、たこ焼きじゃありませんのよ。
そうじゃないの。
確かに似たようなものだけど、大判焼きでもないの。
どこまでもシンプルを極め、シンメトリーを大切にしてるたこ焼きや大判焼きとは違うの。
頭や尻尾を型取り、いったいどっちから食べるべきなのか、日本人を今も悩ませ続けるあの魅惑のたい焼きを探しているのよ。
いったいどれほどこのやり取りを繰り返したことか…
つい一昨日もそうだった。
友達のなっちゃんと大型イオンをぶらつくことになったので、これはたい焼きに出会うチャンスだと心浮かせていた。
大型イオンには大抵フードコートがあり、時にたい焼きはそこに姿をあらわすのだ。
もしかしたら今日がその日かもしれないと、ご飯の量も少し減らして行ったのだ。
久しぶりに会ったなっちゃんにも、私がいかにたい焼きを求め、恋しく思いながらも、出会うことができない切なさを語った。
私の話を全て聞き終えた彼女はいった。
「たい焼きなんてどこにでもあるでしょ。」
これだ
この、夜がくれば朝がくるような。
明日も健康でいられるような。
これからも髪の毛は生え続けるような。
銀行にはいつでもそれなりのお金が貯まっているような。
塚ちゃんはいつまでも私に向かって笑顔を見せ続けてくれるような。
そんな、絶対ではない当たり前の固定概念。
たい焼きだって、少し目を向ければそこにいるような勝手な決めつけ。
だけど見てみてくれたまえ。
私の家のまわりにたい焼きは無く、名古屋駅周辺にも無く、今日きたイオンにだってないじゃないか!
楽しみにしてたのに!
たい焼きはどこにでもあるものだと信じ、その存在を軽視した結果がこれだ!
たい焼きは我々に愛想を尽かし、少しずつ、しかし着実にその姿を消し始めているのだ!
皆様にも気付いてほしい。
小さな時、祭りの屋台で食べたたい焼き。
おばあちゃんが買ってくれたたい焼き。
学校帰りに友達と食べたたい焼き。
思い返せば楽しい思い出とともにたい焼きはいた。
パリパリとフワフワとトロトロと、あなたの心を満たしていたはず。
きっと、これから先もたい焼きは沢山の人々を笑顔にさせるであろう。
わたくしは!ここに誓います!
コンビニには常に出来たてのたい焼きを置き、道を曲がるたびにたい焼き屋が顔をのぞかせ、1週間ごとにオリジナルのたい焼きを発売し、すべての日本国民の心の平和を守り、笑顔をつくりだすことを!
どうか、どうかわたくしに清き一票を!