自分が「自分とはこういう人間だと定義した自分」であろうとする程に、他人との周囲との分離は強まり、自ら孤独な寂しい世界へと嵌っていく。

自分はこうだから、お前とは違う、貴方とは違う。
それは、子供から大人になるにつれて、必要な考え方だったとも思う。
そうやって自我が芽生え、自分の生き方を確立しようとする中で、エゴを持つ事が「自分」を保つには必要だった。
そうしなければ生き抜いていけないと思った。

実際、そうした生き方にした事で得られたものもあったけれど、寂しさが知らず知らずの内に募っていっていた事に気付かなかった。

「他人」も「周囲の環境」も全ては自己の投影でしか形作られていない存在。

それらと自分が認識している自分自身とが違うと切り離せば、寂しさを感じるのも自然なことだと思う。
いずれにせよ、そのどれもが「自分」である以上、自分の中の見たくないものも、他人の中のそれも、周囲の環境のそれも、全ては自分自身。
それなのに、自分に取って都合の悪いものだけを切り離し、それは自分じゃないとするなら、それは自分で自分を否定している事と同じ事。

自分に取って都合の良いものだけが、自分なのではない。

醜いもの、かっこ悪いもの、ダサいもの、迷惑な存在、汚いもの、残酷なもの、理不尽な人間…そのどれもが自分自身を素材に形作られた存在。

そうした存在と自分は違う存在だと思い続ける限り、分離感は在り続け、僕は寂しさを感じ続けるのだと思う。

そうだと分かれば自分の寂しさを、他人…もっと言うと異性で埋めようとする事が、如何に無意味な事なのかも分かるような気がしてきた。

寂しさを埋める必要のない人間は、そういった名目で異性を求めない。
そして、運良く異性と関係を持てたとしても寂しさを埋める為のそれである以上、より寂しさを強めるだけだ。
一番、近くにいると思っている人間、一番自分を理解してくれていると思っている人間でさえも、結局は醜いものを抱えていて、残酷な面も持ち合わせている。
それを見た時に、癒えていない分離感によりまた寂しさが生まれる。
一番、自分を癒してくれる存在だと思っていた存在から、その現実を知らされる事はより強い寂しさを感じる。

故に寂しさが異性で癒えることも、埋まることもない。

自分に取って都合の悪い存在をどれだけ受け入れられるか…そうした分だけ自分自身との分離感の幅は狭まる。

そうすることが寂しさと向き合っていく事なのだと思う。