警察庁長官狙撃事件 | 全曜日の考察魔

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連載「フリーホイールtalk」(11)救急ヘリ病院ネットワーク理事長 國松 孝次さん|企画・解説|紙面記事

平成7年(1995年)3月30日に、当時の警察庁長官だった國松孝次氏が、東京都荒川区の自宅マンション前で狙撃された事件。

 

平成22年(2010年)3月30日に殺人未遂罪の公訴時効(15年)を迎え、未解決事件となった。警察庁長官狙撃事件

犯行には、画像と同型の銃が使用された。

 

この銃は、アメリカの銃器メーカーであるコルト社の「パイソン」という回転式拳銃で、コルト・パイソンはコルト社の「コブラ」「キングコブラ」「ダイアモンドバック」「アナコンダ」などと並び、商品名に蛇の名前を冠するシリーズの一つだとのこと。

 

この狙撃事件は、ある人物が自分の犯行であることを自供している。

 

供述内容からして、その人物が犯人で間違いないと思われるものの、警察はその人物を長官狙撃の容疑では逮捕しなかった。

 

「警察は、犯人が分かっていても場合によっては捕まえないことがある(犯人が分からないふりをすることがある)」ということを露骨に示しているという意味では、3億円事件や、北関東連続幼女誘拐殺人事件などにも通じるところのある事件かと。

 

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以下、ウィキペディアのページ(一部)をそのままコピペ(※部分は当方による補足)

 

■ 概要

 

1995年(平成7年)3月30日午前8時31分頃、國松孝次警察庁長官が出勤のため東京都荒川区南千住の自宅マンションを出たところ、付近で待ち伏せていた男が拳銃を4回発砲。國松長官はそのうち3発を腹部などに受け、全治1年6ヵ月の瀕死の重傷を負った。

 

男は自転車で逃走し、現場からは、朝鮮人民軍(北朝鮮)のバッジや大韓民国(韓国)の10ウォン硬貨が見つかったという。

 

狙撃から1時間後にテレビ朝日に電話がかかる。電話の声は、國松長官に続く次のターゲットとして、井上幸彦警視総監や大森義夫内閣情報調査室長らの名前を挙げて、教団への捜査を止めるように脅迫した。

 

10日前の3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、オウム真理教に嫌疑が向けられて8日前の3月22日に、オウム真理教関連施設への一斉強制捜査が行われていた。

 

國松長官は手術中に心臓が3度も止まり危篤状態にまで陥ったが、2ヵ月半後には公務へ復帰した。

 

銃を発砲した犯人は黒っぽいレインコートに白いマスクをし、黒っぽい帽子を被っていたとされている。

 

警察庁長官狙撃事件

警察庁長官狙撃事件

(狙撃事件の現場となった荒川区南千住6丁目のマンション「アクロシティ Eポート」)

 

犯行説

●  オウム真理教

公安部が主張する『オウム犯行説』の根拠は以下の通り。
・1995年1月13日の上九一色村のオウム真理教の幹部会で麻原が「例えば、警視庁に突っ込んでいって、警視総監の首根っこ捕まえて振り回して来いと言ってきたらどうする?」と警察幹部への攻撃を示唆する発言をしていたこと(この発言は録音テープが残っている)。
・事件前日の午後に、警察庁長官が住むマンションでオウム信者が「警察国家」と題するビラを配布していたこと。
・狙撃事件の1時間後にテレビ朝日に警視総監らの名前を挙げて教団への捜査中止を要求する脅迫電話があったが、電話の声が教団建設省幹部の砂押光朗と似ていたこと。
・事件翌日に信者が都内数ヶ所で配布した事件に関するビラに事件直後の脅迫電話の正確な時刻に関する記述があり、麻原の指示を元にビラの原案を作成していた元教団幹部の石川公一のメモに事件に特徴的な弾丸の記述があったが、これらは作成時点では報道されていなかったこと。
・元教団幹部の岐部哲也に酷似する男が狙撃犯の逃亡ルートと反対側の方向を南千住警察署前を2回自転車で走行する姿が目撃されており、捜査攪乱のために狙撃犯のダミー役を担った可能性があること。
・元オウム信者の小杉敏行元巡査長が事件の数日前に現場周辺で怪しまれた際に警察官と名乗った等の供述には目撃者の証言が確認されており、元巡査長が現場の下見と思われる行為をしていたこと。
・事件現場に遺留された韓国10ウォン硬貨から元オウム信者の男のミトコンドリアDNAが検出されていること。
・元巡査長の私物コートには拳銃を発射した際にできる溶解穴があり、また元巡査長のアタッシェケース(事件2ヶ月前から販売)や黒革製手袋の付着物等が事件で使用された銃弾の火薬成分と矛盾しないとの鑑定結果が出ていること。


● またオウム犯行説の疑問点は以下の通り。
・過去の重大事件を認めてきたオウム教団幹部たちが長官狙撃事件だけは関与を一切認めていないこと。
・使用されたナイクラッド・ホローポイント弾はオウムが武装化する前に製造中止となっていたこと。
・麻原が事件直後に事件速報するテレビのテロップを見て驚いて「上前をはねるようなのがいるのか」と話しているのを教団幹部が聞いていたこと。

 

●  強盗殺人未遂犯N説

(※ Nとは、現在岐阜刑務所に服役しているといわれる中村泰受刑者のこと。中村受刑者は、1930年東京新宿生まれの88歳。2001年~2002年にかけて大阪や名古屋で現金輸送車を襲撃したとして、強盗殺人未遂罪などの罪で逮捕・起訴され、その後に無期懲役が確定して服役中。)

 

警視庁刑事部が主張する「強盗殺人未遂犯N説」の根拠は以下の通り。

・被疑者が1980年代後半にアメリカで事件で使用された拳銃パイソンとホローポイント弾を偽名で購入していた。

・被疑者が犯行直後に逃走した自転車を近くに放置したと供述し、事件直後に放置場所に不審に置かれた自転車に関する目撃証言があった。

・被疑者が犯行後に東京の貸金庫に拳銃を格納したと供述し、東京の貸金庫には事件から1時間後の開扉記録が残っている。

・被疑者が事件2日前に警察官2人が警察庁長官宅を訪問している事実を把握しており、下見をしていた。

・被疑者のアジトから韓国10ウォン硬貨が発見された。

・警察庁長官の住所を把握するために侵入したとされる警察庁警備局長室の配置について、被疑者による証言が実際の配置と一致している。

・被疑者が犯行時所持したカバンの形状と同じものが被疑者アジトから発見されたこと、鑑識の鑑定によってカバンから金属片反応が確認できた。

 

● 強盗殺人未遂犯N説(「N犯行説」)の疑問点は以下の通り。

・現場の壁にあった繊維痕と火薬痕や目撃証言から推定される犯人の身長が被疑者と合致せず、被疑者が狙撃現場にいたという証拠が弱い。

※中村は別の事件での逮捕時にシークレットブーツを履いており、160センチ程度の身長を170センチ程度に見せ掛けていたということがあるので、警察庁長官狙撃事件での犯行時もシークレットブーツを履いていた可能性あり。

・國松長官の秘書が語った3発目と4発目の発砲状況について、実行犯と主張している被疑者との供述に食い違いがある。

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事件の現場の近くに北朝鮮のバッジが落としてあったことから、坂本弁護士一家の失踪事件の捜査で、警察が坂本宅でオウム真理教のバッジという物証を得ながら、地下鉄サリン事件の阻止もできなかったことに対する右翼等による義憤説が当初から根強くあった。

 

鹿島圭介は『警察庁長官を撃った男』で国松孝次元警察庁長官を狙撃したと自供しながら、起訴されなかった国士的かつ戦闘マニア的な元極左活動家で、警官殺害の前科がある人物を取り上げた。

 

2014年8月31日にはテレビ朝日が「未解決事件スペシャル」で、2018年9月にはNHKが「未解決事件」で同人物を報じた。

 

強盗殺人未遂で逮捕されたNは、真犯人しか知りえない事実を数多く供述しており、その裏付けも警視庁の刑事部が取っていた。

 

警察幹部も、

 

「(この人物)以外、真犯人はあり得ない。200%真犯人だ」

 

とまで言っていたにもかかわらず、この人物は長官狙撃容疑で起訴されなかった。

 

鹿島圭介は著書『警察庁長官を撃った男』のなかで、当初この事件の捜査を担当した警視庁公安部がオウム真理教以外に犯人はあり得ないという先入観で捜査したために、この人物を逮捕すると自分たちの方針が全否定されるため、この人物は逮捕されなかったんじゃないかと語る。

 

この人物を取り調べた警視庁刑事部(当時)の原雄一氏は、幹部に、

「お前、警察内部に抹殺されるかもしれないから気をつけろ。駅のホームの端には立つな」

と耳打ちされたという。

 

供述書によると、この人物は犯行動機を、

「オウム真理教団の犯行に見せかけて警察庁長官を暗殺して警察首脳を精神的に追い詰め、死に物狂いでオウム真理教団に対する捜査指揮に当たらせ、併せて全国警察の奮起を促し、オウム真理教団を制圧させることにありました」

と供述した。

 

原氏はこれに対し、

「後付けの動機で、8割方は権力や警察への個人的な恨みだと見ています」

「本当は、時効成立後に名乗り出て、オウムを壊滅に追い込んだのは自分の功績だと誇るつもりでいたんでしょう。ところがその前に別件で逮捕されてしまった。K巡査長という人物も出てきた焦りもあって、崇高な義挙を成し遂げたという理屈で自供したんでしょう」

と感想を述べている。

この人物は、別件で有罪が確定し、現在も服役中である。

 

● 創価学会と警視庁公安部によるオウム犯行誘導説  
オウムと対立していた創価学会と警視庁公安部が事件をオウム犯行へ誘導したとする説。アメリカ人ジャーナリストのジョン・マッケンジーやケビン・クローン[要出典]、韓国の『月刊朝鮮』が推奨している。FBIは長官狙撃事件の発生後、FBI長官の襲撃を想定し警備の増強、日本人の拳銃購入履歴を独自に調査した。調査の結果偽造パスポートを使い入国した日本人が、偽名を使いガンショップで拳銃や銃弾を購入していたこと、(その日本人が)すでに日本に帰国していることを突き止め、(その日本人が)長官狙撃犯の可能性ありと日本政府に通告したが、日本の警察はオウム犯行説を確信しており拒絶されたという。また、強盗殺人未遂犯の自供により警視庁公安部の中にも刑事部が推す強盗殺人未遂犯説を信じるものが出始めたが、公安部はオウム犯行説を確信して譲らなかった。事件を捜査していた刑事部の警部補は内部告発としてある大物議員が警視庁を訪れ「(強盗殺人未遂犯Nの自供があっても)犯人はオウムで決まり。たとえ時効になっても犯人はオウムでなければならない」と捜査圧力がかかったと証言。元警部はその大物議員が公明党の藤井富雄代議士であるとワシントン・ポストに明かした。また、月刊朝鮮は2002年5月「金大中〜藤井富雄ミステリー」で藤井を紹介する際に警察庁長官狙撃事件で警察に捜査圧力をかけた大物と紹介している。

また事件当時は明らかにされていなかったが、1990年代前半には創価学会とオウムとの間で激しい信者の奪い合いが起こり、2年前の1993年にはオウムが創価学会の池田大作名誉会長を殺害することを計画、池田が講演に訪れるという東京牧口記念会館でサリンを噴霧した。この事件は1996年1月の松本サリン事件公判で明らかとなる。

● 警察利権に絡んだ内部犯行説
ジャーナリストの一橋文哉が主張している説。 前任の城内康光元警察庁長官はオウム事件への積極的捜査を抑えていたが、後任の國松氏は、オウム事件に対する本格的な調査を行うよう指示した。城内が公安局長時代の1990年に、パチンコ業界からの闇資金が北朝鮮に渡り、その金が社会党に流れていた疑惑が浮上、調査委員会の設置を依頼した自民党の奥田敬和議員に対して、パチンコ業界に多数の警察OBが天下りをしていたことを理由に協力を拒否した結果、昇進を見送られた過去があるとしている。城内はその後、警察庁長官に就任するが、長官時代に警察官の制服変更、ピストルメーカーの変更などの「警察利権」を武器に、刑事部出身の警察官僚を排除して、公安部出身の警察官僚を重用する人事を行ったため、刑事部の反発や警察組織の内部抗争を招く結果となった。その後、事件前に警察庁の城内から、刑事局出身の國松へ変わった。そこでオウムの犯行に見せかけることで、警察の主導権を公安部に引き戻す狙いがあったのではないかと主張した[30]。

一橋は『オウム帝国の正体』において、1990年に城内康光氏が公安局長だったとしているが、警察庁には公安局なる組織は存在しない。また、1990年当時、城内は実際には警察庁警務局長であり、その警務局(現在の警察庁長官官房)が警備公安警察の運用に携わることはない。また、國松は警察官僚として主に公安畑を歩んでおり、警察庁刑事局長就任以前の1988年には、警視庁公安部長を務めている。その他、一橋は本書の文庫版の104ページにおいて、「発生当初、犯行に使われた銃は、線条痕から38口径のアメリカ・コルト社リボルバー(回転式拳銃)のパイソンで、弾丸は先にギザギザが入った殺傷力の高いホロー・ポイント弾、通称357マグナム弾と推定された」という、意味不明な記述をしている。

結局一橋は『噂の真相』1996年7月号に掲載された「『新潮45』のオウム・ウォッチャー 一橋文哉の盗用常習で発覚した“正体”」において、「ようするに一橋文哉は取材なんてしていなくて、資料や他紙誌の記事をつぎはぎして、あたかも独自取材のように作っているレポートなんじゃないか」として、盗作・捏造疑惑を指摘されることとなった。これに対して一橋は一切抗議していない。また城内康光氏の長男・城内実衆議院議員は「私の後援会副会長は国松元長官」とし、城内康光犯行関与説を一笑している。

その他の犯行説
これら以外に、犯行状況や遺留品から
・ 北朝鮮の工作員説
・ 暴力団(またはその関係者)説
・ 過激派説
も噂されたが、オウム犯行説と強盗殺人未遂犯説程の証拠や証言が得られなかったことや、警視庁刑事部と公安部が自らの説を確信して譲らず、第三局の可能性を全く考えなかったことから、捜査が行われることがほとんど無かった。右翼がオウム真理教を潰すために警察を動かそうとしてやった、という説もあるが信憑性は不明である。上記の強盗殺人未遂犯の狙撃敢行目的こそ警察をオウム制圧に向けさせる挑発であり、そのことは当人の供述調書にも明記されている。