三重県某所での話。
5年ほど前、古書店店長の谷田部仁史さん(仮名・38)は格安の借家に入居した。
築10年あまりだが、二階建てで日当たりも良く、駐車場付きである。
加えて、最寄りの近鉄線の駅まで徒歩3分。
独身の谷田部さんにはもったいないほどの掘り出し物の物件であった。
周囲も、それまで住んでいた四日市市内とは大違いの閑静な住宅街である。
仕事柄、やはり読書家である谷田部さんは、これで毎晩のようにクソ忌々しい暴走族どもの爆音に気を散らされることなく読書に没頭できるぞ・・・とほくそ笑んだ。
(今夜はキース・ジャレットをBGMに・・・澁澤龍彦を読もう。それから一杯やろう)
家具の配置などを手早く終え、谷田部さんは庭に面した窓を開け、深呼吸した。柔らかく照らす夕日と初秋の風が肌に心地良い。
以前、ここにどんな住人が住んでいたのか、独身だったのか家族で住んでいたのか・・・そんなことは谷田部さんにはどうでもいいことだった。
安くて住み心地がいい。街並みも最高。それで充分だった。
入居してからひと月ほど経った、ある深夜のこと。
仕事の休み前の晩なので、谷田部さんはいつも以上に読書にのめり込んでいた。
・・・ふと、谷田部さんはページをめくる手を止めた。
(・・・・・・?・・・・)ほとんど使っていない二階から、何やら物音がする。ネズミか?それともどこからか野良猫でも入り込んでいたのか?
小動物が走り回るような音だ。
・・・いや、音だけではない。BGMにかけていたバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調に混じって、笑い声のようなものも聞こえる。
谷田部さんは背筋に冷たいものを感じた。オカルトや超常現象に対する興味はあったが、信じているわけではなかった。
谷田部さんは意を決して二階への階段を上っていった。
・・・二階の部屋のドアの向こうで、やはり何かが走り回っている。女の笑い声も。
心臓が口から飛び出しそうになりながらも、谷田部さんは勇気を振り絞ってドアを開けた。
薄暗い部屋の床を黒い塊が転げ回っていた。
ヒヒヒヒヒヒヒヒ・・・・ヒヒヒッ・・・ヒャヒャヒャヒャヒャヒャヒャ・・・・!!
笑い声とも泣き声ともつかない声を発しながら、長い黒髪を絡みつかせた女の首が転げ回っていた。
・・・谷田部さんにはそれ以降の記憶がなかった。気がついたら最寄りの駅近くの路上で朝を迎えていた。
当然のごとく、谷田部さんはすぐに引っ越した。
過去にあの家にどんな住人が住んでいたのか、何があったのか・・・考えたくもないそうである。