おはようございます。

いつもブログを読んでくれてありがとうござます。

今日は、ちょっとだけ私が思っていることを書こうと思います。

 

 

 

このブログのタイトルは「人生の答えがわかる、ツイてる話」なのですが、正直に話しますと、なぜ、このタイトルにしたのか忘れてしまったのです(笑)。

 

どのくらい忘れやすいかというと夜歯磨きをしてるとします。

 

私はまず、上の歯を磨きます。

 

その次に下の歯を磨きます。

 

そこなんです。

 

下の歯を磨いていると上を歯を磨いたことを忘れてしまって、上を歯をまた磨くのです(いつもじゃなくてたま~に、たま~に笑)。

 

でね。

 

私のブログを読んでいてくれる人の中には、自分の人生の答えを知りたいって人もいると思うんです。

 

このブログができた当時の人生の答えは忘れてしまったけれど、今、わかっている人生の答えというのを私なりに書いてみたいと思います。

 

もちろん、「あっ、私の答えとは違う」とか「この答えはなんだかなぁ」って人がいてもいいんです。

 

もし、しっくりこなければ自分の人生の答えを優先してあげてね。

 

もちろん、私もこれでいいと思っているわけじゃなくて、これから人生に答えはかわっていくと思います。

 

なので気楽に、ね?

 

私は、人生の答えってなに?って考えるとき、ひとつ考えることがあります。

 

人生の答えを考えているのは誰か?と。

 

そう疑問を投げかけている私なんです。

 

じゃあ、私って誰?っていうところに答えがあると思ったのです。

 

私は、肉体でしょうか?

 

私は、名前でしょうか?

 

私は、思考でしょうか?

 

それらのすべてに答えることが人生の答えでしょうか?

 

私は、肉体ではありません。

 

私は、名前ではありません。

 

私は、思考ではありません。

 

そうやって自分ではない、自分ではない、と考えていると、考えてるのも自分ではないことがわかります。

 

考えているときは自我が考えていると気づきました。

 

自我という制限、恐怖、過去は私ではありません。

 

では、私とは誰でしょうか?

 

神=真我=愛

 

と思うんです。

 

ちょっと複雑なのですが自我とは想念だと思います。

 

自我とは我です。

 

つまり私なのです。

 

私がなになにを感じている。

 

私がなになにを考えている。

 

などの私という一人称がはじまりなのです。

 

その私という自我が発生してるのは心なのです。

 

心に自我という実体のない想念がある。

 

この想念は私ではありません。

 

想念とは印象だからです。

 

さっき、話した言葉も実体がない。

 

同じように自我も実体がないのです。

 

つまり、心(心もまた想念、実体がない)に想念がわき、自体のない言葉(印象)で考えている、というのが本当のところではないでしょうか。

 

心の想念とは対象を取ります。

 

心という想念は対象があるんです。

 

私という一人称があり、それから二人称、三人称と対象が増えていきます。

 

そうなんです。

 

人生の答えっていうのはこの対照がないことを言うのではないでしょうか。

 

別の言い方をすると想念がない。

 

また別の言い方をすると心がない(心もまた想念なのです)。

 

心ってなくしてもいいの?と思うかもしれません。

 

はたして心とは実体のあるのでしょうか。

 

心を感じている感覚は本当に実体があるのでしょうか?

 

心を作っているのは誰でしょうか?

 

心もまた実体がないのです。

 

何度も書きますが、私とは「神=真我=愛」なのではないでしょうか。

 

想念や対象がなくなると世界と「私」の境目がなくなります。

 

よく言われているのが「今」があるだけ。

 

愛そのもの。

 

愛する、愛されるというより、世界との一体化という至福を味わう。

 

たくさんの対象がある「夢」から覚める。

 

「夢」から覚めるのが人生の答えなのかもしれません。

 

このことははじめて書くのでわかりずらいかもわかりません。

 

今、私に書けるのはこの程度のことです。

 

今日もブログを読んでくれてありがとうございます。

 

では、今日はこのへんで!

 

またね~!!!