浮上。
夏の終わり、大学病院婦人科待合の椅子で、夫と共に長い長い待ち時間を過ごしながら、読書する気にもならず、「まったく、希望が持てないね」「うん…」と、ぽつりと会話したことを思い出す。
夫に見られないように顔を背けながら無理やり口の端を上にあげて、ネガティブな考えを追い出そうとしていたっけな。
その後、免疫チェックポイント阻害剤を知り、調べるほどに希望が出てきて、がんセンターで全力でがんと闘っている医療者達と出会い、今に至る。
身体は治療の真っ最中、だのに心はなぜか遥か後方にあり、そこから治療を眺めている状態。気持ちが追いついていないまま、自分を誤魔化して診察室に通う現在だ。
この身体と心の剥離は自分の問題だったのだが、この前診察室で姑息的手術の話をして、そのことをいきなり医師から突きつけられた気がした。
もやもやとショックの正体はそれだったのだ。ああ、私には、病と闘う覚悟が決定的に足りていない…!
自覚と沈没。それがここ数日間の話。
それとは別に、まだ、姑息的手術の安全性についての質問の答えを求めている自分がいたのだが、夫があっさり、「そんなの説明出来るレベルじゃないよ」と。それは私が素人だからではなくて、
「例えば、機械なんかで自分は1000分の1ミリを削ることが出来る、という名人が、なぜそれが出来るのか、を他人に説明なんて出来るわけないだろ? それと同じだよ」
…思いっきり得心しました。あ、そういうことか。
安全性に納得し、覚悟の量も増えた今、おもむろに開脚ストレッチを始めた(笑)。どんな格好でする手術か知らないけど、身体が柔らかい方が術後、楽だと思うので。すると思いの外気持ちが良く、出来ればこれはずっと続けていければな、と三日坊主常連のくせに大望を抱いている。
今度のCT、転移していようがいまいが、治療が第二段階に入るのは間違いない。
デキモノちゃんがまたちょっと膨らんでるのは、薬が効く前の一時的増悪であって欲しい。免疫チェックポイント阻害剤では、そういうことがあるのが知られている。せめぎあい、というのはそれを指した言葉だろう。
今日のタイトルは、廣橋 猛(ひろはし・たけし)というホスピス専門の医師の言葉をお借りした。樹木希林が亡くなった時のコラムから。よりよく生きて満足して亡くなった人は、みんなこれを実践していた、と。
でもこれって、頭で考えるより、ずっと難しい。今回の事で、私はそれを思い知らされた。まだまだ、がん患者初心者だ。あれから3ヶ月。我ながらジタバタしているなあと思う。