【ひとりごと】ある作り手に向けての雑感 | いろいろといろ

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LYnさんとレオくんのコラボ、「花びら遊び」が昨日音楽配信チャートを席巻したそうで、よかったヽ(^。^)ノ。おめでとうございます。

 で、

めでたく1位を獲得したので、ここで本音のメモ(^^;。

#「花びら遊び」を好きな方は気分を害されると思うので、以下はスルーしてください。










 実は昨夜、感想を書くのがとても大変でした。せめて、このブログを読んだ人だけは、制作者側は「単に奇をてらってあんなMVを作ったわけでない」ということを思ってほしかったから。
 でも、ほんとうのところ、自分の中でこの事務所の作った歌全部の歌が覆るほどの強いショックを受けていて。

 理由は、「単に目立ちたいだけじゃないの」という印象をとても感じたから。
 かの国では「これは女性の心をときめかせると同時に別れたくない男性から共感を得て“致命的なラブソング”という評価を得ている。」ということらしいんだけど、この歌の第一印象を一言でいうと、


 「『愛してる』とは言っているけれど、お互いに相手を都合よく自分のものにしたいだけ」


 この作り手にとっては「愛というのは単に相手を所有したいこと」ということなんでしょうか。そんなことを思っていたら、今まで自分の中で輝いていたVIXXの曲の金メッキがはがれてしまいました。

 作り手が年端もいかないのならば掘り下げが浅いのも仕方がないけれど、視聴者に向けての「この歌で何かに気づいてほしい」「こんなことを繰り返さないでほしい」といった想いも祈りも感じられない…。最後には「羊たちの沈黙」へのオマージュっぽいミシンといった小道具でさえうざくて…(><)。そんなかんなで、「猟奇性に関する知識をひけらかしたい」「猟奇性を礼賛しているだけ」のように思われるのです。(その割には、瓶詰のホルマリンの分量が足りませんが)


 同じような状況を村下孝蔵さんの名曲「踊り子」だとこういうふうに歌っています。

----(以下引用)----

 「愛している」「愛せない」
 言葉を変えながら

 駆け引きだけの恋は
 見えなくなっていく。

 つま先でたったまま
 二人愛してきた
 狭い舞台の上で
 ふらつく踊り子

 若すぎた
 それだけがすべての答えだと
 涙をこらえたまま
 つま先だちの恋

----(引用ここまで)----


 引用したのは3番の歌詞です。「背伸びしていた2人、長い時間いっしょにいるうちに視野が狭くなるあまり、お互いをしばりつけていた…。」といった、作り手の昔の恋に対する分析に、今でも思いあたることがでてくるんですよね。


 「あのころ、背伸びしていたんだ、ありのままじゃなかったんだ」
 「もっと、いろんなことを知っていたら、もっとわかりあえたかも」





 ただ、歌は世に出てしまえば、その意味は聴く人が感じていくもの、意味をつくっていくものだと思います。聴く人が「猟奇的という印象だけではない何か」に気づいて、歌が後世に残っていくのを祈りながら、私は私なりの解釈をここに残すばかりです。


 ではでは。