
夏目静という彼女は会社の先輩だ。
林葉研吾と部署は違うが、社内に彼女を知らない者などいない。
その存在は仕事をするうえでどこかで名前が出てきた途端、彼女の姿を思い出させる。
カスタマーサービスという名の渉外部門、いわゆる得意先担当が所属先だ。
容姿端麗という言葉がしっくり似あう、比類なき20代のエース、廊下ですれ違うだけで男たちのときめきが止まらない。
そんな彼女とのつながりなど、林葉にあるはずがない。
彼はフロアの端でおとなしく営業情報の取りまとめを定期的に上層部へ上げるだけのしがない末端社員だ。
ありきたりの毎日をそつなく過ごし、週末にだけ羽を伸ばす若手の事務員、それが彼だ。
この会社に3年、新卒で入社してずっと同じ仕事をしている。
ある日の午後、机の上の電話が鳴り、出るとその彼女からだった。
名前と顔はもちろん知っていた。
何といっても社内一の美貌を誇る男たちのあこがれ、癒しのお姉さまとして注目されていた。
そんな彼女から呼び出しを受け、何事かと胸騒ぎがやまなかった。
待ち合せは繁華街のBAR、名前だけしか知らない高級店だった。
19:00前に店に着き、ボーイに案内を受けて席に着いた。
彼女はすでに席にいた。
男を目視してちょっと笑顔になっていた。
「お疲れさま。急に呼び出してごめんなさいね。」
私服の彼女は淡いピンクのスーツ姿で立ち上がり、向かいの席を勧めてきた。
真近で見る彼女は化粧も完璧でその美しさについ見とれてしまいそうだった。
彼女がオーダーしたビールで乾杯し、一息ついた。
彼女の話によると、先日林葉が数人の知人と合コンした時の事だった。
「あの彼女ね、私の友人だったの。」
彼女はそう言うと男をじっと見つめ、なにかを言わせようとしていた。
男は素知らぬ顔で彼女の頭上を眺め、思い出すかのように顔をしかめて見せた。
彼女はまだ男から視線を外さず、何か答えを見つけようとしているようだった。
「お名前しか知りませんが、あの彼女がなにか?」
彼女は諦めたのか、ひと息いれ、それからは問いただす感じはなくなっていた。
「会社名をおぼえていて、どんな人か聞かれたわ。」
まだ油断はできないが、ひとまずここは切り抜けただろうか。
「安心なさい。真面目でおとなしい草食系と言っておいたから。」
グラスを掲げてビールをあおりながら、その目だけが男を追っていた。
彼女は林葉が社内で各部の女子に有名なことを知っているはずだった。
社歴5年の彼女は社内に顔が広く、各給湯室に仲間がいた。
そうした”噂”は彼女たちが勝手に騒いでることで、彼の口からは何も伝えてはいなかった。
合コンした彼女はお嬢様育ちで男性に免疫が乏しく、男慣れしたこの女に情報を求めてきたのだろう。
酒が進み、妖艶な表情で妖しい雰囲気をまとったこの女はさすがに男選びが厳しく、多くの男はあっさり袖にされていると聞く。
林葉と一緒にいることなど想像できなかったが、こうしていると彼女の性格や嗜好が見えてきていた。
遠くからはちょっと厳しく冷たい感じがしていたが、案外やさしくおとなしい人柄が見えてきていた。
「もうちょっと、つきあってくれる?」
ほんのり赤くなった彼女はそう言って会計を済ませていた。
2軒目は夜景の見える高層階の店だった。
並んで窓辺に座り、他愛無い話をしていた。
「ね、林葉君の彼女は誰なの?」
急に彼女が核心に迫ってきた。
「え?いませんよ。」
「そんな訳ないでしょ。社内にいるでしょ?」
やっぱりそうきたか。
「社内も社外もいませんよ。みんな勘違いしてますよ。」
「噂によると、2Fか4Fか、5Fらしいけど?」
さすがに情報網は広い。
しかしここで認めるわけにはいかなかった。
「好きな人はいますけど。」
「え?誰?」
答えを聞き逃すまいと彼女が迫ってきた。
夜景を見ながらゆっくり顔を巡らせ、横目で彼女を見る。
じっと見つめる彼女と目が合い、しかたなく小声で耳打ちした。
「・・・・・。」
彼女が驚いて目を見開き、林葉を見つめていた。
翌週、車でドライブに出た。
週末は首都高も混んでいたが、横浜に着く頃には流れも順調だった。
ホテルのレストランは客で溢れそうだったが、早い予約のおかげですんなり席を確保できていた。
テーブルに案内され、オーダーを済ませた。
「おいしそうね。」
笑顔で話すのは夏目静、あの彼女だ。
先週の夜から彼女と待ち合わせを重ね、打ち解けていた。
彼女は意外にも林葉を気にかけていたらしく、あの夜、好きな人の名を耳打ちすると驚いていた。
”夏目静さんです”
彼女は驚き、言葉を口にできなかった。
そっと彼女の頭を抱き、やさしく囁いた。
社内で林葉は若手の有望株とみられているらしく、女子に注目されてはいた。
そのため、秘かにお誘いを受けたり、口実をつけて呼びだされたりとそれなりに忙しい日々を送っていた。
数人の女子とは確かに密会の食事やワンナイトの経験があったが、それも彼女たちから出た情報だった。
夏目静はそんな情報を耳にして林葉をどんな風に見ていたんだろう。
彼女は聡明で美しく、上司や取引先のお気に入りとなっていた。
見た目は凛として気品があり、身体は女として十分な魅力を備えていた。
彼女の手は細く長く、女性らしさを感じさせていた。
唇は柔らかく弾み、肌はしっとりして滑らかだった。
男は初めてではないが、乱れてもいないようだった。
彼女のそんな素顔を知り、この女を離したくなくなっていた。
数日の間に彼女との距離が縮み、親しい間柄となっていた。

会社で見かけると笑顔で微笑み、意味ありげなサインを送ってくる。
他の誰かに気づかれぬよう用心していたが、あれじゃあ持ちそうにない。
そのことを伝え、社内にはまだ内緒にしておこうと話した。
その話に彼女は赤くなっていた。
久しぶりの男に嬉しさが溢れてしまったのだろうか。
会社を代表する美貌の女、夏目静はその姿を凛々しく引き締め直した。
こうして彼女は林葉と恋仲になり、女子たちの視線をかいくぐって秘かに付き合うようになった。
林葉は噂のあったかつての女たちとはすでに関係などなく、夏目静には本当の自分を知ってもらおうと嘘はつかずに真面目に付き合っていた。
それに気がついて彼女は安心したように男のすべてを受け入れてくれた。
美しい彼女は生活もきちんとしていて男には驚くことが多かった。
まだ付き合って間がないが、これから長い付き合いになっていく都度、驚きは増えていくに違いない。