彼女が泣いた日 ~ USA 12 | アスファルトのタイガー
中林と玲の新居は街中の新築マンションだった。
地下鉄の駅が近いオフィスビルも多い街の中だったが、大きな公園もあり、緑豊かな街路が整備されていた。

早朝にジョギングする住人も多く、健全な街という雰囲気だった。
住居となるマンションは玲が選び、彼女のセンスで家具や内装を整えていた。
窓からは街が広く見渡せ、高層階からは遠くに東京湾も見えている絶好のロケーションだった。
価格もそれなりで、この部屋のタイプは億を超えていた。
新妻の玲が現金で銀行に預けていた残高の中から支払っていた。
すでに資産は中林玲の管理下にあり、彼女の了解がなければ動かせない状態だった。
中林は彼女の指示に従い、資産の移動を済ませていた。
彼女の感覚では上場株よりは債権の方がウェイトが大きかった。
それらに何も言わず、ただ彼女に任せてしまっていた。
彼女がよければ、上手くいっても下手を打ってもそれで構わないと思っていた。
そうして中林は役者の仕事に専念出来ていた。
朝日を浴びながら玲の作った色鮮やかな朝食をいただき、仕事へ出かける。
最近の玲は見たことのない服を着ていることが増え、精神的な余裕がそうさせているんだろうと思われた。
相変わらず朝から美しい姿で男を迎え、毎日写真でも撮りたいくらいだった。
新婚の新妻はこうあってほしいと思わせる姿に、中林は満足していた。
彼女の笑顔はいつでも男を癒していて自然に気持ちが前向きになってくる。
こんな素敵な女がそばにいてくれることを男はいつも感謝していた。
今まで様々な障害があったが、それを乗り越えた先に今があると感じていた。
そのためにこの幸せが当たり前ではなく、2人で勝ち取ったものであることを忘れず、これからも努力していこうと感じていた。
中林は新しい仕事としてドラマの特別番組に出ることになっていた。
2時間の単発だったが、キャストが豪華で注目度が高いものだった。
まだセリフの多い役がなかったが、今回は出番も多く、セリフも増えそうだった。
1か月ほどかかって収録が終わり、もうじきオンエアされるはずだった。
玲は資産を管理しながら外に出て自分の興味のあることに忙しかった。
映画や舞台を見たり、セミナーや講演会を聞きに行ったり、話題の店やレストランを回ったりして自由に動き回っていた。
中林に時間があれば連れて歩き、新しい店や食事を一緒に楽しんでいた。
その姿は専業主婦などではなく、社会派のレポーターのような行動力と情報量をもって日々を生きる都市型市民とでもいえるような存在に感じられた。
中林はそんな玲を自由にさせていて、彼女の生き方や過ごし方を興味深く見守っていた。
なにより、彼女と一緒に居ることが楽しく、彼女を見ていることが生きる楽しみのように感じられていた。
玲は中林を身近に感じて生活することが生きがいとなっていて、2人はそれぞれお互いに相手を見ながら生きることが幸せだと思っているようだった。
仕事やお金はさほど重要ではなく、相手と過ごせることが大事だと感じていた。
TVでは番組の改変期に中林が参加した2時間ドラマが放送されていた。
スペシャルなキャスティングという振れ込みのドラマは登場人物が豪華俳優陣で、中林はテロップにやっと小さく名前が出る程度のものだった。
話題になったのは主役と相手役の女優陣、それに有力プロダクションの若手俳優達だった。
中林はセリフこそ増えていたが、目だった役でもなく、その姿も平凡な取り巻きにしか見えなかった。
玲はそのドラマを見て中林の反応をうかがっていたが、特に落胆や落ち込む事もなく、いつものように淡々と過ごしていた。
玲は中林ががっかりしているんじゃないかと心配していたが、本人はいつもと変わらない様子だった。
玲はさすが、売れない役者の資産家だと笑顔になった。
特段注目もされず、穏やかな生活を送ることのできる役者生活は平穏で心安らぐ毎日だった。
週に何度か有名レストランでコース料理をいただき、高級車で高速をドライブしながらお気に入りの音楽を聴く、世間に注目されない生活は気が楽だった。

そんな生活を楽しむ中林を玲は意外に面白い男だと思って見ていた。
有名になろうとか、何か賞でも欲しいとか、そういった世俗的な欲を感じさせない姿に、玲はこの男の価値を感じ始めていた。
以前の玲なら、有名になって世間から注目されて、芸能ニュースをにぎわせる役者がいいと思っていたが、今では逆に注目されない役者に満足していた。
それは中林を玲だけが注目できる環境だということだった。
マスコミに注目されない役者、それが今の中林だ。
中林はそうしたことをどう思っているのか、玲は聞いてみたいと思っていた。
当の中林は役者という仕事について、演技を勉強したわけでもなく、いままで志してきたわけでもなく、単にアルバイト的な感覚でいるにすぎなかった。
出来ることは一生懸命やるし、出来ないことは出来ないと言っていた。
芸能事務所では彼を育てるつもりで長い目で見ようとしていた。
だから業界での評価がどうであれ、まだまだこれから変化があるだろうと思っていた。
中林が結婚したことはキャリアとしてはいいことだし、役者として幅を広げる機会と考えられていた。
事務所では中林に焦らないでゆっくり行こうと話してあった。
中林としても、高額なギャラを望んでいるわけではなかったし、自由な時間がなくなるような働き方を望んでもいなかった。
あくまで、自分を生かせる環境があればといった気持だった。
そんな折、事務所からアメリカのエージェントが仲林を使いたいと依頼が来ていることを知らせてきた。
以前、ハリウッドで一緒に仕事したエージェントが中林を覚えてくれていて、企画会社からアジア人を使いたいと言う要望があり、真っ先に指名してくれていた。
中林は仕事内容を確認してもらい、その期間が長期にわたることを聞いて玲に相談することにした。
玲はまたアメリカへ中林が行くことを嫌がったが、中林はすでに行く気でいた。
「仕事だからな。必要なものを準備しといて。」
玲は困った顔をしていたが、中林はそんな玲に声を掛けた。
「お前も行くんだぞ?」
玲は驚いて笑顔で中林に抱き着いた。
「嬉しいッ!」
中林はもう玲と一緒でなければ何もしたくないと思っていた。
それからは玲がアメリカ行きの準備に取り掛かり、大所帯の荷物が出来上がりつつあった。
「そんなに要らないだろう。向こうで用意すればいい。」
そういって衣料品から多くを諦めさせ、身の回り品だけを用意させた。

事務所からは仕事内容とギャラの話があり、期間が3か月以上かかる予定だと言われていた。
「3か月以上だと、何か困ることあるか?」
玲に聞くと部屋を留守にするくらいだと言われた。
玲の両親に留守をお願いし、一度アメリカへ遊びに来るよう誘っていた。
仕事内容は刑事ドラマの脇役で、日系人の役らしい。
ギャラは現地のレートで見積もられ、渡航費、住居費は出るものの、車や運転手、通訳などは必要に応じて自費で用意しろとのことだった。
これらは全部玲に任せることで大丈夫そうだったので何の問題もなかった。
さっそく現地に飛び、ホテル住まいで車を購入し、玲の運転でしばらく近くを走り回っていた。
やがて仕事が始まり、撮影が始まった。
玲をマネージャーのように使い、中林は連日撮影に臨んでいた。
そうして順調に撮影が進み、半分を過ぎようとしていた。
エージェントからこのドラマが全米で放送され、有名な俳優が出ていなかったにもかかわらず人気となり、すでに次回作の話が進んでいることを教えられた。
そして高視聴率に支えられ、途中からギャラが変更され高額に変わっていた。
撮影での待遇も改善され、その変化にアメリカの資本の凄さを感じていた。
玲は毎日中林のマネージャーとしてエージェントや企画会社とやり取りしていた。
その中でいくつかヒントを得て仕事の改善が出来てきていた。
撮影が終盤にかかり、もう次回作の話が本格化し、エージェントも今回のキャストで行くことにしていた。
中林についても継続して出演し、日本の事務所と新たな条件で契約することになっていた。
その中に、新たに現地でマネージャーと通訳をつけること、また運転手もつけることなどが盛り込まれ、以前とはだいぶ様相が変わってきていた。
結果的にそれはすべて妻の玲に任せることとなった。
玲がスタッフに採用されたのだ。
今までの専業主婦からの転職で、思いがけない仕事にありついた。
それもこれも、この刑事ドラマが人気で全米で支持され、主役以外の中林も注目されてインタビューなどを受けていたからだった。
撮影が終わって2人はまた次回撮影までしばらく期間があったので、このままアメリカへ残って全米を車で旅して回ることにした。

カリフォルニアから南へ下りメキシコの手前のサンディエゴへ行き、砂漠をラスベガスまで走り、デンバー、ダラス、ヒューストン、ニューオリンズ、フロリダのマイアミから半島の先、キーウエストまで走った。
それからはニューヨークへ向けて大西洋を北上し、アトランタ、ワシントンDC、フィラデルフィアからニューヨークへ向かった。
その間は地方のモーテルやダイナーを利用し、本当の旅行者のように安い旅行を満喫し、写真や動画を取ってはクラウドに保存した。
現地を旅すると一般のアメリカ人とやり取りが増え、仲良くなる人たちも多かった。
あまり危険な目には合わなかったが、時々は高級ホテルに泊まってリフレッシュしていた。
ニューヨークでは以前泊った高級ホテルで一息つき、新婚旅行を思い出していた。
それからはボストンまで北上し、そこからは西海岸に向けて方向転換した。
デトロイト、シカゴ、ミネアポリスと進み、ノースダコタ、モンタナ州を経由して遠くシアトルまで車を走らせた。
最後は南へサンフランシスコを抜けてロサンジェルスへ戻ってきた。
この間、1か月ほどを費やし、7,000マイル近くを走った。
この旅行では玲がこうした旅は初めてだったので最初は喜んでいたが、次第に飽きてきて早く帰りたいと騒ぎだしていた。
なだめすかして何とかロサンジェルスへたどり着いたが、帰りにはハワイで休むことを約束させられた。
ハワイでは1週間ほどブラブラし、日焼け止めを塗る毎日だった。
そして日本へ帰国し、部屋へ帰るとやっと身体が楽になっていた。
日本食が美味しく感じられ、何を食べても嬉しかった。
帰国してからはしばらく仕事はせずに休養していた。
そしてあのドラマの評判が芸能事務所にも伝わっていて、次回作への依頼がすでに来ていた。
アメリカで評判が良くても日本ではそれほど知られていないので中林はいつもと変わらず普通に出かけていた。
車で食事に出ても誰にも気づかれず、街を歩いても声もかけられなかった。
そんな日常が続き、中林は売れない役者を満喫できていた。
そして中林はアメリカを横断して車で走ったことから、今度は日本を車で走ることを考えた。
アメリカから見れば大した距離でもないはずだったが、ゆっくり見て回れば時間がかかりそうだった。
そのことを玲に話すと、彼女は一人でどうぞと言ってついてこなかった。
よほどアメリカでの旅がこたえたのだろう。
次の撮影までまだ時間があったので、中林は日本を回ることにして車を探した。
車は身軽な2シーターとして、国内様に右ハンドル仕様の車を選ぶ。
旅行用に新しく購入することにして何台か試乗してPORSCHEの最新車種にした。

旅行鞄一つで出発し、北へ向かった。
もう秋の気配が風に感じられていた。
幹線道路から外れると人も車も少なくなり、自由に走らせることが出来るようになった。
海岸線の道路をひた走り、雨にうたれ、雲に追われながら街を抜けていく。
宿は飛び込みで選ぶことが多く、温泉がお気に入りだった。
山中の旅館は人も少なく、寂しいほどだったが、旅を味わうには絶好だった。
まずは千葉方面、九十九里から霞ヶ浦、茨木を抜け、福島、宮城へ。
松島で休養し、遊覧船に乗ってみた。
三陸を北上、釜石、宮古、久慈から八戸へ。
海岸線はどこでも海の幸が豊富で何を食べても旨い。
下北半島を尻屋崎から大間岬へ。
フェリーで函館、海鮮料理はここでもうまい。
室蘭から苫小牧、海岸線を襟裳岬へ。
当たり前だが、岬からはどこを見ても海しか見えなかった。
釧路、根室と回り、歯舞群島を望遠鏡で見るとロシアの船が航行している。
野付半島の宿で休み、翌日はタンチョウヅルの声を聞く。
中標津から羅臼、知床峠では近くの尾根にクマを見て、ウトロの港へ。
観光船が出ていたが、南へ走る。
屈斜路湖のそばで川湯温泉に泊まる。
”温泉牧場”で馬に乗せてもらい、小ぶりなトラックを走った。
霧のない摩周湖から網走、サロマ湖を経て紋別へ。
宗谷岬で写真を撮り、稚内から利尻、礼文島を右に見ながら雄大なサロベツ原野へ。
日本有数の見事な何もない道路を何度か行ったり来たりして高速走行を味わう。
風の強い留萌から富良経由で札幌へ入る。
近場の小樽観光しながら一休み。
気がつくとすでにもう2週間が過ぎていて、一度玲の元へ帰ることにした。
苫小牧からフェリーで茨木の大洗へ。
東京へ帰ると玲が喜んで迎えてくれた。
久しぶりに会う玲は新鮮で、化粧が変わったように思えた。
対して伸び放題の髪、髭面の中林は浮浪者のようでもあり、よく見ると部分部分をケアしていてさっぱりした服を着ると見違えるほどの色男に見えた。
玲はその変化を不思議そうに眺め、距離を置いていたが、風呂上がりの中林は以前の出会った頃のように若く溌溂として見えた。
久しぶりの姿にドキドキしていたが、中林は手も出さず、夜まで玲に触りもしなかった。
玲が不思議がっていたが、夜になって食事を終え、中林はすぐにベッドへ入ってしまった。
玲はいつものように時間を使い、風呂へ入ってやっと寝室へ入った。
就寝前のケアを終え、ベッドに入ったが中林は寝たままだった。
何かおかしいと思った玲は男にちょっかいを出してみた。
起きる気配がなく、玲は仕方なく抱きついて眠ることにした。
中林は長旅で疲れて眠っていたが、夜中に玲の身体がのしかかっていて目が覚めた。
真夜中だったが、柔らかい身体に股間が反応し、本能が彼女を求めていた。
眠りながら玲は男に抱かれ、夢の中で犯されていた。
その感覚が現実になり、男の身体に責められて嗚咽が漏れていた。
やがて身体が限界を感じ、女の喜びを解放して果ててしまった。
男は彼女の中で逝ってしまい、そのまま眠っていた。
朝方になって玲が目を覚まし、ベッドの中の状況が分かるとあわてて起き出して浴室へ駈け込んだ。
いつものように朝の支度をして化粧を終え、朝食を用意した。
一人テーブルの椅子に座り、昨夜からのことをぼんやり考えていた。
確か眠っている中林のそばで抱き着いて寝たはずだったが、それからは・・・記憶になかった。
夢を見ていた気がしたが、身体の中にあったのは男の痕跡だった。
”ひょっとして、あれは現実だった?”
男に犯され、快感に身をゆだねて意識がもうろうとして、目が覚めた。
”あれは中林だった?”
久しぶりの事に玲は自信がなかったが、相手は中林だと思った。
もうずいぶん他の男に触られたことがなかったが、あの感触は中林に違いない。
安心して息をつき、男を起こしに行った。
中林はまだ眠そうにしていたが、その姿が玲は嬉しかった。
朝食を平らげる男の姿を、玲は知らずに見つめていた。
「うまかった。」
男が声を掛けるとハッとして玲は立ち上がって器を下げていたが、後ろから抱き着かれ、持ち上げられて頬にKISSされた。
そのまま寝室に連れていかれ、裸にされて夜の続きが始まった。
おかげで玲はすっかり目を覚ますことになった。
”ああ、これは私の男だ!”
玲が、玲であることを実感する瞬間だ。
それは中林以外では感じたことのない心躍る感覚だった。
安心して身を任す、彼女の好きな一瞬が訪れていた。