彼女が泣いた日 ~ 退職と逃避 9 | アスファルトのタイガー
佐伯玲との生活は思った以上に楽しく、女性と暮らすことによる発見が多かった。
目が覚めるとすでに玲は着替えていて朝食まで用意できていた。
また化粧もほぼ終えていて、女は素顔を見せないという都市伝説も経験した。
それには見えないところでの苦労があるのだが、まだ若い男にはその大変な苦労が分かっていなかった。
中林はそれでも佐伯玲の生活がきちんとしたものであることに驚いていた。
毎日のように洗濯機を回し、ランドリールームが空である日がほぼなかった。
また台所のシンクに洗い物が溜まっているのを見ることがなかった。
そうした当たり前のことが、中林には不思議だった。
中林は会社へ勤めながらいまは役者の仕事も行っていた。
平日は会社へ、土日には役者仕事を行うようにしていた。
そんな中林を佐伯玲は妻のように支えながら業界大手の会社で働いていた。
中林は彼女に仕事を辞めても構わないということを言っていたが、彼女は自分がしたいからと会社を辞めようとしなかった。
先ごろ、佐伯玲にプロポーズしたことで変ったのは玲が以前にもまして家庭内のことをきちんとしてくれていることだった。
彼女の左手には眩しいほどの指輪があり、その細い指が動くたびに指輪が存在感を示していた。
会社では彼女の婚約がニュースとして社内を駆け巡り、全社の男達が驚いてがっかりするという不幸な出来事が続いていた。
週明けには社内がこのニュースでもちきりで、午前は仕事にならなかったという話だった。
社内を歩くたびに、あちこちからため息が聞こえ、肩を落としている男たちがいた。
社内の女子たちはお祝いを口にしていたが、その相手が分からずに話題となっていた。
役員室からは彼女の動向に注視する雰囲気があり、寿退社するのか噂されていた。
社長室の女性室長から呼び出しがあり、佐伯玲は会議室へ入った。

室長は30に入ったばかりの若く美しい女性だったが、まだ独身だった。
「佐伯さん、この度はおめでとうございます。社長からのお祝いのお花をお預かりしました。」
室長はにこやかに、この25歳のタカラジェンヌに花束を渡した。
「ありがとうございます。」
佐伯玲は笑顔で受け取り、椅子に座った。
室長とは互いに事務方ということもあり、何かと連絡や社外での付き合いがあって知らない中ではなかった。
「それにしても、急な話でしたね。社内が大変でしたよ。」
佐伯玲は口元を隠しながら笑った。
その指に光る指輪を室長は見逃さず、眼を見張ってじっと見つめた。

それは宝飾に詳しい女ならはっきりわかるほど高価で綺麗なダイヤが並んでいた。
おそらくハイブランドの高級品だとは判ったが、価格までは想像つかなかった。
「その指輪、いただいたものかしら?」
佐伯玲は指輪を撫で、手で隠し持った。
「ねえ、どんな方?教えてちょうだい。」
室長はその美貌から以前は社内のアイドルとして名を馳せていたが、社長室勤務となってからは落ち着いて仕事をこなしていた。
社内では社長のお気に入りと言われ、愛人ではという噂があった。
「相手は普通の人なんです。でも、私には素敵な人で、ああ、この人だと思える人です。」
佐伯玲は言葉少なに伝え、室長はそれを聞いて笑顔になった。
「あなたがそう言う人なら、ぜひ会ってみたいわ。」
室長は可愛い後輩に優しい言葉をかけ、一緒に食事でもしましょうと誘った。
佐伯玲はにこやかに了解し、部屋へ戻った。
佐伯玲に会った人は皆、その指輪を見て感嘆し、玲は笑顔になった。

社内ではどこからか、その指輪がH・W製で高価なものだという噂が流れていた。
男達は指輪の価格を予想し、年収では買えないことに気がついて驚いていた。
次第に役員室からも花束が届き、佐伯玲の周りはまた華やかになっていた。
玲はまだ仕事に未練があり、会社を辞めるつもりはなかった。
お花をいただいた役員たちを回り、お礼の挨拶をしていた。
役員たちは皆、お祝いと同時にがっかりもしていて複雑だった。
それでも佐伯玲の笑顔を見て喜んでいた。
玲はプロポーズされたことでまた一段とその美しい輝きを増し、女としての存在感を上げてその美貌を誇らしげに見せていた。
彼女のファンである女子たちもまたお祝いを口にしてくれていた。
こうして社内では佐伯玲の婚約が知れ渡り、停滞していた業務もやっと進みそうだった。
考えてみれば佐伯玲の婚約は会社にとってある意味ショックであり、会社の顔と言ってもいい彼女が結婚するということなので今後が心配にもなりそうだった。
そんなこととは知らず、中林はいつも通りに会社に出ていた。
会社からは特に話もなかったが、職場や同僚達からは彼女に関する質問がうるさかった。
どこで見つけたのとか、どうやって口説き落としたのとか、話題に事欠かなかった。
女子たちはこのニュースにショックを受け、週明けは各階の給湯室が暗いムードに包まれていた。
社員食堂では女子たちが婚約話で取り巻いて騒がしかった。
しかしそれも翌週にはTVで中林が出たCMが流れ始めるとまた違った騒ぎに発展した。
食品のCMだったが、共演する女優が大人気の新人で、TVではドラマやバラエティで引っ張りだこの綺麗な女だった。
この若手人気女優がTVの取材中に気になる男として中林の名前を出したのだ。

CMで共演しただけだったが、何処か気になったのだろうか。
マスコミが一斉に中林の事務所に殺到し、コメントを求められていた。
事務所はノーコメントで通したが、レポーターは中林を探し出し、追いかけていた。
ワイドショーで取り上げられると各局で芋ずる式に取材が始まり、中林はカメラに追われることとなった。
TVを見ていた佐伯玲は驚いて中林に電話した。
中林は事務所から取材に応じるなと釘を刺され、姿を隠すように言われていた。
それからは会社でもこの話題で噂され、仕事にならなくなってきた。
中林は会社に電話で体調不良でしばらく休むことを伝え、事情を知った会社もそれを認めてくれた。
佐伯玲は中林がマスコミに追われていることを知り、いずれ自分の会社にも来るだろうと感じ、早々に休暇願を出した。
佐伯玲の会社ではまだ騒がれていなかったが、大事な人材からの申し出に許可を出していた。
そして二人でどこかに逃避することにした。
二人はすぐにヨーロッパへ飛び、パリでホテルに滞在した。
ネットやメールで日本での騒ぎを確認しながら静かに過ごしていた。
CMの相手女優はまだ若く、話題になるのが嬉しいらしく、火に油を注ぐ様なコメントを連発し騒ぎを大きくしていた。
中林と佐伯玲は思いがけないバカンスに浸り、ゆっくりした旅を満喫し、海や山へ出かけていた。
フランスからドイツ、モナコ、オーストリアなど、様々な国々を歴訪し、有名な観光地へ出かけていた。
そんな中、旅行中の日本人からカメラで撮影され、マスコミに二人のその姿が流れてしまった。
多くのマスコミがそれに気づき、ヨーロッパへ追いかけてきそうだった。
二人はそのことに気がつき、また場所を変え、アメリカへ渡った。

ニューヨークで以前滞在した高級ホテルに入り、喧騒から逃れていた。
佐伯玲はこんなに注目されるとは思っていなかったが、それにしても中林の財力に疑問を感じていた。
旅費だけでもすでに1,000万円は超えていて、その他を含めると2,000万円は使い果たしているはずだった。
佐伯玲は伊藤礼香が預かっていた銀行の通帳をまだ見ていなかったのでその残高は知らず、中林の財産についてはまだ詳しい話を聞いていなかった。
それは財産を知った上での付き合いではなく、中林という男に惚れた女としてこの男のプロポーズを受けたのだが、今までこの男の財産は特に気にしていなかった。
しかしここへきてかなりの額を消費していることに気がつき、その残高が気になってきていた。
思い切って中林にその質問をしてみた。
「残高?何だ、気になるのか。」
「ええ、こんなに使っていて大丈夫なのか心配になってきたの。」

中林は苦笑を見せながら思い出すように話し始めた。
「玲に預ける予定の通帳に1億5,000万円ある。そのほかに銀行に2億ほど、株で2億弱、不動産でおよそ4億、ただ株と不動産は時価だからあてにはならないけど。まあ、そんなところか。」
佐伯玲は話を聞いてびっくりしていた。
”ええっ?”という顔になり、中林を見つめた。
「じゃ、いったい全部でいくらあるんですか?」
玲は頭で数えながら聞いた。
「まあ、ええと、全部で10億弱か。」
佐伯玲はそれを聞いて大きなため息をついた。
「そんな人だったんですか。あなたは。」
佐伯玲はあきれた表情になり、中林を見つめた。
「私にはマンションしかありませんよ。」
悲しげな表情になって玲が呟く。
「言ってなかったっけ?」
とぼけた顔で中林が佐伯玲を見る。
「でも、それが欲しくて一緒になったわけじゃないだろ?」
中林は佐伯玲を抱きしめ、諭すように見つめた。
「だから、お金は玲に預けるから、俺を頼むよ。」
中林は玲を抱きしめ、首を預けて目を瞑った。
玲は急に緊張して落ち着かなくなった。
この男は株で大当たりしたとは聞いていたが、1億くらいだろうと思っていた。
しかし今の話では10億近い資産があるらしい。
佐伯玲は中林と別れた伊藤礼香を思い出した。
この男から通帳と家族カードを渡されていたはずだった。
彼女はそのことを知っていたんだろうか。
佐伯玲は今になってあの時の伊藤礼香を想った。
もしそうなら、彼女の人生は大きく変わったことになる。
彼女は通帳の1億5,000万円を知っていただろう。
それだけでも大変な金額だが、10億とは。
佐伯玲は中林を抱きながら、その金額を漠然と捉えていた。
しかし今は旅費が間に合うことが分かり、安心した。
それにしても、だ。
そんな大金を持ちながら会社員だなんて。
まして土日は役者ですか?
そんな人、この世にいる?
佐伯玲はこの会社員兼役者の資産家をあきれ顔で見た。
”もう、あきれちゃうわ。
あなたこそ、仕事を辞めて資産家のふりしてればいいのに。”
佐伯玲はこの後を想った。
帰国すれば恐らく何かしらの取材があるだろうし、このままではいられないはずだ。
自分はもう婚約したことから会社では寿退社すると思っているらしい。
それならば、会社が特に必要としないなら、退社してもいいだろう。
中林はどうか。
おそらくは会社は辞めざるを得ないだろうが、役者は続けるだろう。
つまりは売れない役者の資産家、というところか。
そんな未来も、佐伯玲は嫌じゃなかった。
この人の妻となり、売れない役者の妻となる、なんて平穏な生活だろう。
資産は別として、いや、あまりあてにしないとして、専業主婦になろうか。
毎月を今までのように給料レベルで暮らしていけば、何とかなるだろう。
たまに旅行や遊びに出かけれればそれでいい。
そう、この男がいれば、それでいい。
佐伯玲はその育ち以上に質素で清廉な女になっていた。
中林はそれに気がついていたんだろうか。
寄りかかった中林が寝息を立てていた。
静かに横にして毛布を掛けた。
一人でシャワーを浴び、身体のメンテナンスを終えて中林をベッドに連れて行った。
並んでベッドに横になり、目を瞑った。
隣の男が10億の大金を持っていたなんて。
佐伯玲は実感がわかず、そのことを考えていた。
そして窓の外が明るくなるころ、温かい男の体温を感じながら眠りについた。
その温もりはやさしく、彼女の心に安らぎをもたらしていた。
ニューヨークに、朝がきた。