彼女が泣いた日 ~ 別離と役者 7 | アスファルトのタイガー
中林は伊藤礼香の佐伯玲への突撃のあと、彼女に会っていろいろ説明やら説得しなければならないと思っていた。
イベントのために生活がめちゃくちゃになり、休みも取れず仕事漬けの毎日だったが、それを口実に伊藤礼香に会わずに佐伯玲と会っていたのは言い訳できそうになかった。
中林は正直に話そうと決めていた。
待ち合わせして車でドライブすることにした。
かつて何度かドライブした場所を訪れ、食事してお茶を飲み、またドライブしていた。

伊藤礼香はなぜか陽気に笑顔を見せ、病的に悩んでいたとは思えないほど元気だった。
ラブホテル前を通ると寄っていかないかと誘われたが断った。
それでも彼女は明るく会話していた。
人気のない見晴らし台に着き、景色を眺めていると彼女が抱きついてきた。
拒むことも出来たがそのままにしているとKISSしようとしてきたので腕で抑えた。
「彼女と付き合うことにしたから。」
男の声に彼女が無言で顔を隠した。
やがて彼女は車を降り、一人離れて泣き出した。
しばらくして後を追い、声を掛けようとした。
「いつからか、そんな気がしてたの。あなたが彼女と会ってるんじゃないかって。」
泣きながら彼女が言う。
「披露宴のあとで写真を撮った時、彼女のあなたを見る目が変だと思ったの。なぜかキラキラして見えたわ。」
礼香は顔を見せずに話している。
「ちょっと心配になったけど、そんなはずないと思ってたわ。だけどまさか・・・。」
彼女はまた泣き崩れ、それがしばらく続いた。
何も言えなかった。
風が吹いてきて寒くなっていた。
車に座らせ、走り出した。
無言であちこち、一時間以上走り回った。
以前だったら、楽しい時間のはずだった。
彼女の路線駅前で止めると、彼女が口を開いた。
「もう、だめなの?もう一度やり直せない?」
彼女が切ない声で聞いてきた。
ため息が漏れ、中林が彼女に返事を返す。
「もう、元には戻れないよ。」
下を向いたまま彼女が泣いているようだった。
彼女はやがてドアを開け、車を降りた。
そして人波に紛れ、姿が見えなくなった。

後日、佐伯玲から電話があった。
話を聞くと伊藤礼香の友人達から嫌がらせの電話が多く来ていると言う。
どうやら礼香が友人達に今回のことを話し、友人達が伊藤礼香を可哀そうだと佐伯玲にあることないことを浴びせ、いじめてきているという。
佐伯玲もさすがにうんざりしたようで唯一の理解者である中林に愚痴を聞いてほしかったらしい。
困ったやつらだなと思いながら、中林は佐伯玲に気にするなと励ました。
陰口は中林の事も言っていたらしく、さすがにその内容を聞いて中林も怒らずにいられなかった。
その後しばらくして騒ぎは収まり、伊藤礼香の話は聞こえなくなっていた。
これで解決したのかわからなかったが、ひとまず落ち着いたと感じていた。
通帳と家族カードはそのままだったが、婚約してはいないものの、慰謝料と思えばいいかと考え、しばらくそのままにしておいた。
お金を引き出せるわけでもなく、数百万円なら使われても構わないと思っていた。
彼女がどんな女だったのか、それでわかるはずだ。


その後、佐伯玲とは毎月休みにあちこちへ旅行し、全国を訪ね歩いた。
盆と正月にはニューヨークとロンドン・パリへ飛び、年越しはマンハッタンで過ごした。

ビジネスクラスは片道60万ほど、往復二人で250万円だった。
ホテルはセントラルパークを見下ろすプラザや高級ホテルで一泊50万円以上した。
そんな贅沢な旅行も、佐伯玲がいれば気にならなかった。
彼女はその長身と欧米の女性に負けないほどの風貌で英語も堪能でガイドもいらなかった。
中林は旅先で彼女に任せてついて歩いていた。
二人でゆっくり過ごす海外はハネムーンのようだった。
帰国してから、一緒に住むことにしていた。
彼女の部屋でも十分だったが、せっかく二人で住むのだから新しく部屋を探し、中林が費用を出して広いマンションを借りた。
彼女の部屋は貸し出し、返済に充てた。
中林は彼女と一緒になることを考えていて、新居はその時購入すればいいと思っていた。
年が新しくなり、仕事もまた新しい業務が増えてきていた。
会社ではあのイベント以来主任となり、若くして多少責任のある仕事を任されていた。
マスコミ対応など人前に出る場面が増えて外出することが多くなり、服装や身だしなみを今まで以上に求められ、佐伯玲から指導されながらなんとかそのセンスを保っていた。
そんな中、広告の仕事中に映像関係の会社と組むこととなり、映画監督たちとも話す機会があった。
スタジオやロケに同行し、次第に懇意になり、親しく付き合うことになっていた。
ある時、撮影中にトラブルがあり、出演者が足りなくなってエキストラを使うことになった。
ロケ中だったのですぐには人が手当てできず、監督のアイデアで中林が急遽代わりに出ることになった。
中林はサポートするスタッフとして同行していて、その話に抵抗したがやむなく協力することにした。
ほんのちょい役だったが、すぐにOKが出てホッとした。
後日、出来上がりを見ると中林の出番はほんの数秒だったが、ストーリーの展開上、どうしても必要な役だった。
その試写を見ていると撮影監督が近づいてきて中林を褒めたたえた。
「いやあ、急だったけど、意外に良かったねえ。」
「そうですか。お役に立てましたか。」
笑いながら話していたが、そこへまた別の関係者が加わり、話が続いていた。
「また機会があったら、お願いしますから。」
中林は笑いながら会場を後にした。
そして翌月、別の案件で中林が呼ばれることになった。
あの使ってくれた監督が推薦して他のCMに出てほしいと言うことだった。
もちろん中林は固辞していたが、制作サイドからの要望でやむなくまたエキストラとして出ることになった。
会社ではエキストラで出演すると言うことで制作会社と打ち合わせ、その期間は撮影に張り付き、業務として参加すると言うことになった。
出演が仕事になったと言うことだった。
佐伯玲はその話を聞き、面白そうな話と喜んでいた。
そして撮影が始まり、意外にも中林の出番が多くなっており、セリフはないものの、外せない役目となっていた。
撮影や編集が終わり、試写が行われた。
その中には中林の場面が大きく扱われ、準主役並みの扱いだった。
制作サイドでは中林のキャラクターを評価しており、その風貌や笑顔が映像として効果的だと言われていた。
そして映像がTVで流れ出し、中林の新鮮なキャラクターが業界で注目されていた。
会社ではみんなから冷やかされたが、制作会社では本気でプロダクションと打ち合わせて今後も使いたいと話が出ていた。
佐伯玲はTVのCMを見て、言葉が出なくなっていた。

これは、もう本物に違いなかった。
中林の姿が、動きが、演者そのものに見えていた。
佐伯玲は知り合いの芸能プロに電話し、このCMについて意見を聞いた。
芸能事務所でもこのCMを見ていて、出演者を探していたようだった。
佐伯玲の友人だと言うことが分かって、芸能事務所は紹介してくれと言ってきた。
佐伯玲は興奮して電話を切った。
中林を捕まえ、この話をしたが、中林は本気にしなかった。
部屋に帰ってからもう一度話をして、中林を説得した。
そして芸能プロダクションと打ち合わせして面接を受けた。
中林は佐伯玲とこの話をしながら、どうするかを考えていた。
モノになるかどうかわからないが、めったにない機会なので試してみようということになった。
会社員をしながら、機会があれば出演してどんな評価なのか、見て見たかった。
そして芸能事務所から契約の話があり、会社員との二色のわらじで契約することになった。
会社にも説明し、出演は休暇を使いながらという許可をもらった。
その後、制作会社からいくつかの仕事をもらい、安い出演料ながらギャラを得て、役者としての仕事が始まった。
これまでの人生とは全く違う世界に入って行くことになった。