見た目で踏み躙られた人が
その環境から出てから
踏みにじった人の価値観から
解放されるための
「正しい努力」
というものがあります。
自分の存在価値を認めない価値観に
縛られたままでは
適切な仕事に応募することが
そもそもむずかしいため、
どこかである程度でも
克服する努力は必要。
というのが
真剣に苦しんだ先達たちからの
アドバイスでした。
単純に
自分が得た情報を
正確に
整理することなんですが、
・自分の妄想で自分を傷つけることだけは
選ばない。
・他人の言葉は言葉のままで聞く。
・「受け取り方」「解釈」は、自分の意思の
自分の妄想として情報を整理する。
そして自分の妄想で自分を傷つけない。
・理解できないアドバイスは
「(わからないアドバイスは
できないことだから)
アドバイスとしては今必要ない」で
終わらせる。
それ以上の意図は考えない。
・感情は正確に伝えることを不可能にする
と心得る(相手は言葉選びを間違えるし、
自分は聞いた内容を歪めて受け取り
やすい)。
そこで自分の妄想で自分を傷つけない。
・根拠なく意図を決めつけない。
その妄想で自分を傷つけない。
・全てを知っているわけではない以上は
「こうでないとおかしい」
「〇〇なわけがない」は妄想の範疇である
と心得る。その妄想で自分を傷つけない。
・他人の性格や考え方は
相手の選択肢から何を選ぶかで知るもの
と心得る。
それ以外のやり方で
他人が自分を嘲笑う姿を感じたなら
それは、自分の身勝手な妄想と心得る。
自分の妄想で自分を傷つけない。
ただの情報整理ですが
見た目で他人を貶めるというのが
本人に自分を傷つける妄想を
義務として押し付ける暴力
だと、
痛感することになります。
だから
苦しめられた人は
どうしても「褒め言葉を受けいれられない」
という苦しみ方をするのですが
そして、
根拠のないいい加減は暴力で
さんざん苦しめられた後にまで
どうして被害者が
乗り越えるための努力を
押し付けられるの?!
という怒りは
ごもっともですが
だからこそ、
そんな価値観に縛られる一分一秒が
もったいないです。
写真やデッサンなどの静止画
そして
フィギュアなどの造形物については
ある程度なら
美しさに基準はありますが
生きて動いている人に関しては
何らかの執着がなければ
見た目を評価しない、
なんなら
執着がゼロであれば
そもそも存在を認識もしない
つまり
人間には
人を見た目通りに
評価できない。
これ以外のことは
わかってないんです。
執着、とは
何らかの可能性を見出された
ということで
単純に存在を意識するだけでなく
個人のとして執着するのは
そこに価値を見つけたということで
価値あるものは
支配して
人として扱わず
自分の道具としてこき使おう
とするのが
見た目を根拠に相手をけなす行為の本質です。
そして
情報を正しく選別する努力、は
その価値観に抵抗する手段でもあるので
書き記して
その文章を衆目にさらす行為は
ただの承認欲求ではなく
相手の理不尽に
支配されないための手段のひとつ
という認識を
持たれた方がいいと思います。
この世は
理不尽を味わう人生がほとんどで
理不尽な相手と戦わずして
理不尽そのものに打ち勝つ努力を
諦めない姿は
理不尽を味わう(味わった)人にとって
希望ですし
その記述から伝わる姿は
美しいし、かっこいい。
それは
たとえば他人のブログを読むときの
自然な反応ではないでしょうか。