ということで前半からの続きです。さてさて、次の話は見ものですよ。

 

ギリス兄弟ありがとうございました。兄弟のお話は私たちみんなにとってまさに贈り物プレゼントのようでした。次に執筆部門で働いているエドワード・アルジャン兄弟が話します。兄弟の話のタイトルは「受け入れにくいときの対策」

 

ギレアデ第155期で学んだ兄弟姉妹は間もなく卒業し割り当てられた場所に向かいます。楽しみにしていることと思います。でもこの先いつも順調というわけではないはずです。人生そんなに甘くありません。皆さんがこれからぶつかる問題の1つは何かの物事のやり方やいろいろな方針が調整される時その理由が理解できないということかもしれません。例えば伝道への取り組み方、会衆の中で決定されることあるいは支部での仕事の進め方などなどもちろんイザヤ60:17にあるように調整によってより良くなっていくのはうれしいことです。でも受け入れるのが難しいこともありますよね。聖書やエホバの証人の発行する本や記事にも変化に順応するのは難しいということが書かれています。これまで慣れてきたやり方から全く新しいやり方に変えなければいけません。合わせるのが難しいのはどうしてですか。自分が巻き込まれるから?どこでどんな奉仕をするかが変わるから?そうかもしれませんが別の理由も考えられます。もしかすると受け入れにくいと思うのは変更の意図がつかめないからなのかもしれません。もちろん協力して従いたいとは思っています。でもこんなことを言う自分もいます。「なんであんな変更があったんだろう。こっちのやり方の方が絶対うまくいくと思うんだけどな。」うーん、確かに新しい指示を受け入れるのは難しいものです。付いていけないと思うかもしれません。でもそんなふうに感じるときできることがあります。聖書を開いてフィリピ3章を見てみましょう。ここでパウロは当時の会衆の人たちについて気掛かりなことを書いています。といっても深刻な問題があったわけではないようです。それでもある人たちにとっては問題になりそうなことがあると気付いたパウロはそのことに触れます。フィリピ3:15,16でこう書いています。「それで私たちのうちクリスチャンとして十分に成長した人はそのような考え方をしましょう。もし皆さんが何かの点で異なる考え方をしているとしても神は正しい考え方を教えて下さいます。いずれにしても私たちはこれまで進歩してきたのですからこの同じ道をきちんと歩んでいきましょう。」パウロは何を言いたかったんでしょうか。当時神に仕えていた人たちにとってとてつもなく大きな変化がありました。モーセの律法に従うことからキリストに従うことへの変化です。パウロ自身は「こっちの方がいいのに」などと考えて抵抗したりせず変化を受け入れていました。律法にこだわる気持ちは捨て去っていました。以前は律法の下でいろいろいい思いをしていてユダヤ人の社会で目立つ立場に就いていました。でもそういうものを全部後にしました。一方一部のユダヤ人のクリスチャンは同じようにはできませんでした。律法を大切にする気持ちを振り捨ててキリストの後にしっかり従えるようになるには長い時間がかかりました。どうしてそんなに時間がかかったんでしょうか。こう言うのは簡単です。「頭が固くて今のままがいいと思ってたんだろうね。」確かに一部の人はそうでした。例えばただ迫害されたくないという理由でモーセの律法に従い続けている人たちもいました。当時そういうことがあったわけです。でも考えてみて下さい。それまではエホバを崇拝する人はモーセの律法に従わなければいけませんでした。ユダヤ人の中にはクリスチャンになる前律法に忠実に従っていた人たちもいたはずです。忠実にとはどういうことですか。ただ従っていただけですか。そういうレベルではありません。律法を大切にしてきました。律法のベースになっているエホバの性格や物事のやり方や考え方を愛する気持ちを育んできました。かなり長い期間をかけてそこまでの愛を育ててきた人もいたはずです。でも突然律法は廃止されました。こう考えてみると忠実な人たちが変化を受け入れるのは簡単ではなかったのがどうしてか分かりますね。今でもそういうことがあります。例えばこんなふうに言われたかもしれません。「これこれの理由で伝道はこうやって下さい。会衆ではこういう理由でこんなふうにして下さい。支部では仕事をこんなふうに進めて下さい。これが一番いいやり方だからです。」では忠実な皆さんはどうしてきましたか。決められたことを受け入れるだけではなくその理由にも納得するようにしてきたに違いありません。誰かがぶうぶう言うとしてもあなたは忠実でした。指示されたことがいいと思えるようになるまで何年もかかったかもしれませんがそういうレベルまで成長してきました。そこまでしてきたのに指示が変わってしまいました。指示の理由まで変わりました。1世紀のユダヤ人のクリスチャンと同じように皆さんも新しいやり方の方が優れているとすぐには思えないこともあるかもしれません。以前の取り決めを大切にして心から従ってきたからです。それで合わせるのは簡単ではありません。こういうとき何ができますか。できることが3つあります。どれも先ほど読んだ聖句から学べることです。1つ目に根気強く待つことです。15節にこうあります。「クリスチャンとして十分に成長した人はそのような考え方をしましょう。…皆さんが…異なる考え方をしているとしても神は正しい考え方を教えて下さいます。」祈って変更や調整の意図をつかもうと真剣に頑張ってもどうしても理解できないなら考えるのをやめ待ちましょう。やがて分かるようになります。すぐかもしれませんし時間がかかるかもしれませんがいずれパズルのピースがはまるかのように納得できこの調整は間違ってなかったんだと思える時が来ます。2つ目にきちんと歩くことです。どういうことでしょうか。16節の英語のスタディー版聖書の注釈からするとクリスチャンが心を一つにして前進するということです。今考えている話で言えば新しい指示に文句を言ったり反発したりせず進んで合わせるということです。文句を言う人や反発する人はきちんと歩いているとは言えません。みんなをばらばらにしてしまいます。むしろきちんと歩いていきましょう。新たなやり方に付いていくことでです。3つ目です。エホバを崇拝するルーティンをしっかり守ります。16節でパウロはフィリピのクリスチャンに「進歩」し続けるようにとも言っています。私たちも進歩し続けたいですね。皆さんはこれまで真理を理解し大切にしクリスチャンとして進歩してきました。素晴らしいことです。これからもそのことに集中して下さい。今のところ自分には理解できないことについていつまでも考え続けるのではなく割り当てられた奉仕に忙しく取り組みエホバを崇拝するルーティンをしっかり守りましょう。そうすれば気持ちよく奉仕に打ち込めます。振り返りましょう。何かの調整の理由が分からず受け入れるのが難しいと感じるときできることがあります。フィリピ3:15,16から学べました。待つこときちんと歩くことそしてエホバを崇拝するルーティンをしっかり守ることです。

 

⇒多分、この話は今後、各会衆のマイコン長老が、自分たちの言う事を成員に従わせようと、引き合いに出す可能性もありますから、その時のために要点まとめておきますよ。①根気強く待つ。②きちんと歩く(進んで合わせる)。③ルーティンをしっかり守る。さぁ、続いてこの話のキモです。

 

最後にこの3つ目のことをもう少し詳しく考えてみましょう。エホバへの崇拝のルーティンをしっかり守ることについてです。これは変化に順応する時だけでなく人生のいろいろな場面で役立つことだからです。数年前に聞いたこんな例えを思い出します。まあ実はギレアデ卒業式で聞いた例えなんですけどね。教訓者の1人が石炭で動く昔の蒸気船について話していました。上の方には船長と乗組員がいます。下ではシャベルを振るってボイラーに石炭をくべる人たちが働いています。そのうちの1人がシャベルを置いて仲間にこう言います。「なんか今この船左に旋回してるよね。どう考えてもおかしいと思うんだよね。僕に言わせると今は向きを変えずに真っすぐ前進し続けるべきだと思うんだ。船長は分かってないんじゃないかな。上に行って一言言ってくるよ。」兄弟はここで話を止めます。そしてマイクに顔を近づけて例え話の締めくくりとして一言だけ言いました。「いいから石炭をくべなさい」それが私たちのするべきことですよね。石炭をくべていればいいんです。エホバから任された仕事に一生懸命取り組みましょう。イザヤ60:17に出てくる銅金銀のことはエホバにお任せします。私たちの担当は石炭です。クリスチャンとしてのルーティンをきちんと守りそれに打ち込みましょう。エホバは私たちの活動を導いてくれるだけでなく私たちが正しい姿勢で気持ちよく付いていけるよう助けてくれてもいます。そして私たちはこれまでで一番素晴らしい調整を経験できます。今の世の中は新しい世界に変わります。

 

⇒この部分は、SNS上でもかなり物議を醸した例えでしたけど、要は、「つべこべ言わずに、ひたすら作業しろ。文句垂れるな。」ってことですよ。この教団が、ここまではっきり言ったことありましたかね。そのうち、「シアン化合物混ぜたクールエイド飲みましょう。」って言いだしそうな気がしますね。人民寺院かよ。怖。

 

アルジャン兄弟ありがとうございました。みんながぶつかる問題への3つの対策をよく学べました。次に教訓者の1人リチャード・チルトン兄弟が話します。話のタイトルは「あなたはだまされてきましたか」

 

ついにこの日が来ました。頑張ってきましたね。皆さんの中には元いた場所に戻る人もいれば新しい場所に行く人もいます。でもどこに向かうとしても確かなことがあります。人生の新たなページが開こうとしているということです。皆さん全てにとってです。これから何が待ち受けているか考えるとわくわくしますね。でもちょっと不安がよぎるということもあるかもしれません。こんなふうに思うことがあるでしょうか。「私大丈夫かな。任されることをきちんと果たして周りからの期待に応えていけるんだろうか。本当に自分でいいのかな。」もし心の中にそういう気持ちが湧き上がってきたら思い出して下さい。そう感じるのはあなただけではありません。神に仕える人は昔から皆さんと同じような気持ちになることがありました。ある人の例を見てみましょう。その人の名前は聖書の書名になっています。エレミヤです。エレミヤ1章をお開き下さい。1:4,5をお読みします。こうあります。「エホバが私に語り掛けてこう言った。『私はあなたを母親の胎内で形作る前から知っており生まれる前にあなたを神聖なものとした。国々に対する預言者とした。』」エレミヤはエホバからこう言われて、得意になったり調子に乗ったりしたでしょうか。そんなことはありませんでした。6節でエレミヤは何と答えていますか。「しかし私は言った。『ああ主権者である主エホバ!私はどのように話したらいいか分かりません。少年にすぎないからです。』」つまりこう言っていたわけです。「私にはあなたから任されたことができそうもありません。」ではエホバはどうしたでしょうか。9節を読みます。「エホバは手を伸ばし私の口に触れた。それからエホバは言った。『私は私の言葉をあなたの口に入れた。』」エホバはいわばこう言って安心させました。「大丈夫、私が一緒にいるから心配は要らない。」それでエレミヤは預言者として働くことを引き受けましたがやっぱり大変でした。迫害に遭いました。暴徒に襲われ牢屋に入れられ水ために投げ込まれ泥に沈んでいって死にそうになったこともあります。いろいろと苦しい目に遭いました。もうやめたい、逃げ出したいと感じたことすらあります。20章を見てみましょう。8節の中ほどからエレミヤはこう言っています。「エホバの言葉のせいで私は一日中侮辱されからかわれます。それで私は言いました。『この方について話さないことにしょう。もうこの方の名によって語ることはしない』と」私たちもエレミヤと同じような気持ちになることがあるかもしれません。もうやめたいと思うこともあり得ます。では9節の続きを読んでみましょう。「ですが神の言葉[つまりエレミヤが伝えていたメッセージ]は私の心の中で燃える火骨の中に閉じ込められた火のようになりました。私はそれを抑えるのに疲れもう耐えられなくなりました。」一体何があったんでしょうか。自分は少年にすぎないと言っていた人が勇敢なエホバの預言者になりました。幾多の困難があったのにです。ではどうしてそんなふうに変われたんですか。エレミヤ自身が11節で話しています。こうあります。「エホバは恐るべき戦士のように私と共にいて下さいました。」恐るべき戦士が一緒にいてくれたおかげでエレミヤはもう話すことはできないという気持ちから話さずにはいられないという気持ちになりました。180度変わったというわけです。誰が自分を助けてくれているのかがはっきり分かりました。エレミヤはそのことをこの話のタイトルが取られている20:7で次のように言っています。7節を読みます。「エホバあなたは私をだまし私はだまされました。あなたは私に対して力を振るい勝ちました。」エホバはエレミヤをだましました。もちろんいい意味でです。エレミヤがもう限界だと感じた時エホバは自分がどれほど強いかに気付かせました。そして不安を乗り越えられるよう力を吹き込みました。エレミヤが180度変われたのはどうしてですか。1つ目にエホバへの奉仕を引き受けました。2つ目にエホバを信頼しました。3つ目にエホバの聖なる力が自分に働くようにしました。こういう経験をしたのはエレミヤだけではありません。モーセも180度変わりました。「口下手」で流ちょうに話せませんでしたが国民を力強く導くリーダーになりました。ヨナも180度変わりました。最初は割り当てられたニネベから反対方向に逃げていきました。でもおじけづくことなく伝道できるようになりました。ペテロも180度変わりました。「イエスを知らない」と3回も言いましたが後にイエスが期待していた通り岩のような存在になりました。皆さんはどうですか。エホバにだまされてきましたか。

 

⇒騙されてきましたよ。えぇ。騙され続けて約半世紀。まさか、一度は人生を賭して邁進しようと思った教団が、ここまで変節してしまおうとは。

 

最近ギレアデを卒業したある姉妹のコメントをご紹介したいと思います。こう言っています。「私たちが割り当てられた国は貧しく政情が不安定で健康を保つのが難しい所だと聞きました。それでエホバにこう言いたくなりました。『本気ですか。私たちにあの国に行けって言うんですか。私虫だめなんです。病気にもなりたくありません。』出発の日が来て住み慣れた場所や友達に別れを告げる時大泣きしたのを今でも覚えています。」でも姉妹は割り当てられた場所に行きました。そして時は流れ数年がたちます。姉妹と夫は別の国で奉仕するよう割り当てられました。こう言っています。「卒業してアメリカから出ていく時は今が人生で一番つらいと思いましたが実はだまされてたってことです。この国で新しくできた友達と離れることになった時言葉では言い表せないほどさみしく感じたからです。あんなに泣いたことはありませんでした。」姉妹は振り返ってこう言っています。「エホバは大切なことをとても優しく教えてくれました。ギレアデに来る前は自分で限界を決めて言ってみればその箱の中に自分を押し込めていました。でも自分にぴったりの箱を作ってくれるのはエホバだということが分かるようになりました。エホバからこう言われているように感じました。『新しい場所での奉仕に順応できるだけでなくそこを離れたくないと思うくらい愛せるようになるよ。』確かにその通りでした。そこの人たちが大好きになりました。この数年間人生の中でも特に幸せな日々を送りました。以前は変化を恐れていました。今は違います。今はエホバとエホバのすることを心から信頼しています。」素晴らしいですね。姉妹も180度変わりました。エレミヤと同じようにエホバにだまされたわけです。姉妹はもっと強くなりもっと幸せになれました。どうしてでしょうか。私たちがエホバにだまされるとき次のような3つのいいことがあるからです。1つ目にエホバともっと親しくなれます。2つ目に思ってもみなかったようなうれしい経験ができます。3つ目にエホバからこれまでとは違う新たなトレーニングを受けられるようになります。まとめです。人を愛して下さい。そうすれば人から愛されます。割り当てられた奉仕も好きになれます。どこへでもエホバが導いてくれる場所へ喜んで進んでいきましょう。恐るべき戦士が一緒にいてくれるので負けることはありません。ではこれからもエホバにだまされるようにして下さい。そうすれば素晴らしい経験ができます。エホバはオーダーメードのあなたにぴったりの幸せを用意してくれているからです。

 

⇒うるせぇ。虫ぐらい我慢しろ、アホが。

 

チルトン兄弟エレミヤについての良いお話をありがとうございました。エレミヤを身近に感じ私たちも同じようにしたいという気持ちになりました。これから話すのもギレアデの教訓者の1人です。トレント・リポルド兄弟が次のとても興味をそそるタイトルで話します。「機械に差す油」

 

その人はギリシャ語聖書の約4分の1を書きました。パウロに匹敵する量です。名前は3回しか出てきませんしその人について説明する言葉はほんの少ししかありません。医者ルカです。名前は有名ですが分かっていることはあまりありません。世の中の多くの人は自分をアピールしたがりますがルカは本当に重要なことが何かを教えています。では医者ルカから学びましょう。ルカの名前が最初に出てくるのはコロサイのクリスチャンへの手紙4:14です。パウロは「皆に愛されている医者ルカ」と書いています。このことは授業で「ルカによる福音書」を学んだ時にも考えましたね。医者というだけあって医学用語をよく使っています。でもただ病気を治す医者だったわけではありません。人の気持ちに寄り添える温かい心を持つ医者でもありました。例を見てみましょう。「ルカによる福音書」を開いて4:38,39を読みます。「イエスは会堂を出てからシモンの家に入った。するとシモンのしゅうとめが高い熱で苦しんでいて人々から助けてほしいと頼まれた。それで彼女のそばに立ちその熱を叱りつけると熱が引いた。しゅうとめはすぐさま起き上がり皆をもてなし始めた。」38節でルカはしゅうとめが「高い熱」を出していると書いています。でもよく見て下さい。ルカは何に注目しています。か熱が高かったことだけですか。こうありました。「シモンのしゅうとめが高い熱で苦しんでい[た]」マタイもマルコもそのことに触れていません。ルカだけが書いています。別の例も見てみましょう。22:44です。ルカ22:44ゲッセマネの庭園でイエスが祈っているところです。ここでルカは特にどんなことに注目しているでしょうか。「しかしイエスは深く苦悩しさらに真剣に祈り続けた。汗が血のようになって地面に滴り落ちた」医者だったルカはイエスの「汗が血のようになっ[た]」と記録しています。でも聖句をよく見るとこう書かれています。「イエスは深く苦悩し…汗が血のようになっ[た]」。ルカはイエスの苦悩を記録しています。医学的な事実だけを書いているわけではありません。ルカはイエスのことを接する人に真摯に向き合う人として描いています。イエスは偏見を持ったりせず一人一人を愛していました。それぞれに違う苦しみを抱えている人を心から思いやっていました。ルカはイエスのそういうところに魅力を感じました「ルカによる福音書」にだけ登場する人たちがいます。例えば高齢のエリサベツとゼカリヤがいます。さらにアンナとシメオンナインのやもめ18年腰が曲がっていた女性イエスの足を涙でぬらして香油を注いだ女性重い皮膚病のサマリア人徴税人ザアカイイエスと一緒に杭に掛けられたあの強盗などもです。こうした人たちへのイエスの接し方にルカは引かれました。そしてルカもイエスと同じようにしました。エホバの憐れみが境遇や立場に関わりなくどんな人にも差し伸べられると分かっていました。そういう気持ちや姿勢を持っていたのでルカはみんなに愛されました。「愛されている医者」と呼ばれています。ルカのおかげで周りの兄弟姉妹も和やかな雰囲気で伝道を楽しめたでしょうね。一緒に旅をしていたパウロたちもそうだったはずです。ルカの名前が2回目に出てくるのはフィレモン24です。ここではルカのことが「共に働く仲間」と書かれています。「使徒の活動」をご覧下さい。使徒16:8からお読みします。使徒16:8「そこで一行は[つまりパウロテモテシラスそして仲間たちは]ミシアを通り過ぎてトロアスに行った」ここでパウロは幻を見て「マケドニアへ渡」るよう言われます。10節を見て下さい。「パウロがその幻を見てからすぐ私たちは…マケドニアへ行こうとした。」11節「それで私たちはトロアスから船に乗っ[た]」こうやってルカは自分を含めています。でもルカという名前は出てきません。自分のことをアピールしてはいません。ルカはただ主語を変えただけです。「一行」から「私たち」にです。ルカはトロアスでパウロの2回目の宣教旅行に加わりました。そして一緒にフィリピまで旅をします。ルカが「共に働く仲間」と呼ばれていた理由が13節から分かります。フィリピに着いてからのことです。「そして安息日に町の門の外に出て川のそばに行った。そこに祈りの場所があると思ったのである。私たちは腰を下ろし集まっていた女性たちに話し始めた。」この時ルデアという女性が話を聞き王国についてのメッセージを受け入れます。聖句に「私たち」とあることに注目して下さい。ルカも一緒にいました。みんなそこに「祈りの場所があると思」いました。一緒に話し合ってどこに行こうか決めた時ルカもその場にいたわけです。そしてルカも集まっていた女性に話し掛けました。ルカは一緒に働きました。ただ旅に同行して記録を付けていただけではありません。ルカは共に働く仲間でした。私たちみんなが学べることがあります。自分も一緒に働きましょう。割り当てられた奉仕に進んで打ち込み手本になって下さい。断定はできませんがルカは西暦50年から56年までフィリピにいたのかもしれません。56年にフィリピでパウロの3回目の宣教旅行に加わっているからです。フィリピでは何をしていたんでしょうか。詳しいことは分かりません。聖書に書かれていないからです。それでも共に働く仲間として忙しく働いている姿を想像できます。注目を浴びなくても一生懸命奉仕していたはずです。ルカは56年にフィリピでパウロに合流した後一緒にエルサレムまで旅をします。神殿で騒動があった時にもエルサレムにいました。そして囚人となったパウロと一緒にカエサレアさらにローマまで行きます。パウロはそこでも拘禁されていましたがルカは自由の身でした。でもパウロに付き添っていました。パウロは共に働く仲間がいてくれて心強かったに違いありません。何度も棒でたたかれむち打たれ石を投げ付けられ難船に遭ったパウロは体に多くの傷があったはずです。さらに「1つのとげ」とも闘っていました。一緒に旅行していたテモテは「度々…病気」にかかっていました。それで医者のルカがいてくれてみんなありがたかったでしょうね。ルカは王国について知らせる活動を献身的にずっと支えました。いつもパウロや仲間のそばにいて揺るぎなく愛しました。ルカがそんなふうに温かい気持ちを持っていたことはテモテ第二4:11から読み取ることができます。ルカの名前が登場する聖句の中で一番後に書かれたものでパウロが亡くなる直前に書いたこんな言葉です。「私と一緒にいるのはルカだけです。」ここからパウロがどれほどルカのことを大切に思っていたかがよく伝わってきますね。ルカは聖書を記した時自分のことをできるだけ含めないようにしました。でもパウロや仲間のために尽くす、なくてはならない存在でした。もしルカがいなければパウロがあれほどの働きをすることはできなかったはずです。それなのに目立とうとはしませんでした。福音書ではイエスにスポットを当てています。「使徒の活動」では伝道にスポットを当てています。ルカは自分の名前を聖書に含めないことで大切なことを教えているのかもしれません。神に仕えた人の中でこれほど有名なのにここまで情報が少ない人はほかにあまりいませんよね。こういうルカの生き方に倣いましょう。そして手本になるよう努めて下さい。自分を低く見る考え方を持っていて謙虚な姿勢で仲間に仕えている人たちの手本にです。ルカはパウロと張り合ったりせず目立たない場所で働き続けました。いつも周りの人に仕えることを願っていて脚光を浴びたいとは考えませんでした。機械ではなく機械をスムーズに動かす油のような存在でした。生徒の皆さんこれからもギレアデで学んだことを生かしていって皆に愛されている人共に働く仲間と呼んでもらえるよう励んで下さい。そうすればルカのように機械に差す油になれます。

 

⇒なんだかんだとプログラムに文句を言っている犬猫氏ですけどね、リポルド氏の話は好きなんですよ。えぇ。彼の話というより、聖書をきちんと説明する話が好きなんでしょうな。

 

リポルド兄弟大切なことを教えてくれて本当にありがとうございます。ルカがどんな人だったか学べましたしそこから「機械に差す油」という話のタイトルの意味もよく分かりました。元気が出てくるそしていろいろなことを考えさせられる話ばかりでしたね。パート1を楽しめましたか。パート2とパート3は今月中にjw.orgにアップされる予定です。ではマンスリープログラムの最後に美しい国に住む兄弟姉妹に会いに行きましょう。ハイチを訪ねます。ハイチという名前には「山の国」という意味があります。ハイチはカリブ海に浮かぶ熱帯の島国です。白い砂の美しいビーチ川滝、そして雄大な山々があります。ハイチの文化や言語は独特です。多くの人はフランス語を話します。でもほとんどの人の母語はハイチ・クレオール語です。これはフランス語の単語と西アフリカの言語の文法が組み合わさった言語です。ハイチの人はアフリカとヨーロッパの人の特徴を併せ持っています。ダンスも歌も笑うことも大好きです。おいしい食事もあります。例えばトムトムです。これはパンノキの実をすりつぶした食べ物でオクラソースと一緒に食べます。ハイチでいつから王国の良い知らせが伝えられるようになったのか正確なことは分かりません。でも早くも1887年2月の「シオンのものみの塔」誌が挙げていた興味を持つ人のリストにハイチの名前がありました。ハイチに初めて宣教者がやって来たのは1945年のことです。そのうちの1人はローランド・フリデットでハイチ支部の最初の監督になった人です。宣教者の姉妹たちも勇敢でよく働く人たちでした。グロリア・ヒル、ナオミ・アダムズ、ヘレン・ダミコ、フランシス・ベイリーなどです。みんな1950年代のこの国での伝道に大きく貢献しました。ハイチの人たちは神の言葉について聞くのが好きです。今では伝道者が1万7000人以上います。ハイチ・クレオール語アメリカ手話そしてスペイン語で一生懸命伝道しています。ハイチ・クレオール語の本や雑誌は点字版でも準備されているので目の不自由な人も真理を学ぶことができています。この国は山に覆われているとはいえそのために伝道活動が阻まれることはありません。夏の時期いろいろな年代の兄弟姉妹があまり奉仕されていない区域での伝道を楽しんでいます。ハイチは経済的に安定しておらず最近は自然災害にも見舞われました。が兄弟姉妹はどんな時も前向きです。先行きを心配しなくていいという明るいメッセージを人に伝える活動に打ち込んでいます。島の北部にはカプ・ハイティアンという町があります。この町にあるモルヌ・ルージュ会衆で113人の伝道者が奉仕しています。兄弟姉妹が皆さんにあいさつを送っています。みんな世界中の仲間のことを心から愛しています。ハイチ・クレオール語でこう返した。いですね。「ヌラマヌトゥ」、「私たちも愛しています。」という意味です。エホバの証人の世界本部からJWBroadcastingでした。

 

⇒ハイチ、今大変じゃん?ギャングやら暴動やらで。伝道なんかしてる場合ちゃうで?「ヌラマヌトゥ」じゃねぇから。

 

ということで、今回のギレアデ卒業式はいかがでしたでしょうか。何ら得るもののない、カルト臭プンプンなプログラムでしたが、唯一得た教訓と言えば、「Don’t drink the Kool-Aid!(クールエイドは飲むな!=盲信すんなよ!)」ってことですかね。

 

ということで、梅雨のジメジメした季節となりますが、皆様健やかにお過ごしくださいませ。カルトの中心地から愛を叫ぶ、現役エンホー犬猫がお届けしました。