記念式を10日後に控え、2024統治体からの話(2)がアップされておりました。しかし、MC役のサンダーソン君、すごいヒゲを蓄えておりますね。それでは、さっそくどうぞ。(以下、斜体太字部分は放送からの書き起こし。)

兄弟姉妹ようこそ。2023年の年次総会からどんなことを学べましたか。「地上の人全てを裁く方」エホバがどれほど憐れみ深いかよく分かりましたね。ノアの時代の洪水で死んだ人、ソドムとゴモラが滅ぼされた時に死んだ人、さらに大患難の最中に心を入れ替える人がエホバの憐れみから恩恵を受けられると聞いて温かい気持ちになりました。年次総会が終わってからもエホバの憐れみについてじっくり考えてきたんじゃないでしょうか。統治体もまさにそうしてきました。祈りつつ聖書を調べ、深く考え話し合いを重ねた結果、統治体は重大な悪事に関わった人をエホバがどう見ているかに改めて注意を向けることができました。この話ではエホバが悪いことをした人にどう接してきたか聖書中の例を振り返ります。そしてクリスチャン会衆内で起きる重大な悪事に長老たちがどう対応するかについて新しい情報もお伝えします。

⇒熟慮に熟慮を重ねた結果ということなんでしょうが、根底にはノルウェーの判決があるんでしょう。最近ではオランダの話も出てきましたしね。

ペテロ第二3:9にはこうあります。「神は一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでいる。」ここからエホバがどんなことを願っているかが分かりますね。エホバは全ての人に悔い改めていつまでも生き続けてほしいと願っています。最初の人間夫婦が神に反逆したため、人類は罪を負い死ぬようになりました。エホバはどうしましたか。2人の子孫のできるだけ多くの人が再びいつまでも生きられるようにするためすぐに手を打ちました。信仰を持ち、心を入れ替えて生き方を改める人がイエスの犠牲によって罪を許されるようにしました。そういう人たちがずっと生きられるようにするためです。ですから聖書の中でエホバが悪いことをした人に、生き方を改めるよう呼び掛けているのも驚くようなことではありません。自分のもとから離れていった人に戻ってくるよう何度も訴えています。ローマ2:4の次の言葉の通りです。「それともあなたは神がご親切にも悔い改めに導こうとしてくださっていることを知らず、神の豊かな親切と寛容と辛抱を軽く見ているのですか。」

⇒神はずっと前からそうだったんじゃないの?それをあんたたち幹部連中が、ああでもない、こうでもないと言い始めて、ワケワカメ、イミトロロにしてきたんじゃね?

悪いことをした人が生き方を改められるよう、エホバが助けの手を差し伸べた例を見てみましょう。カインが弟のアベルを憎んで殺してしまいたいとまで思った時エホバはカインに話し掛けて説得しようとしました。ダビデが過ちを犯した時、エホバは預言者ナタンを通して事を正せるよう助けました。イスラエル国民に対してはどうでしょうか。聞く耳を持たないイスラエル人にもエホバは繰り返し訴えました。エゼキエル33:11で次のように呼び掛けています。「生きている私自身に懸けて誓う。私は悪い人の死を喜ばず、かえって悪い人が生き方を変えて生き続けることを喜ぶ。悔い改めて悪い行いをやめなさい。イスラエル国民よ、あなたたちが死ぬようなことがあってよいだろうか。」何が分かりますか。エホバは人に生き方を変えるよう無理強いすることはありません。でも罪を負っている人間のことを深く思いやっています。エホバはそうできるときにはいつでも許そうとします。過ちを犯した人が心を入れ替えられるよう助けるためあらゆる手を尽くします。私たちの神は本当に憐れみ深く思いやりにあふれています。統治体は会衆内で悪事を犯した人にどう接するとエホバの憐れみにもっと倣えるかよく祈って考えました。そして3つの聖句についてよりよく理解できるようになりました。

⇒いや、この教団設立して、140年から経ってんねんで?今更かよ?

1つ目の聖句はテモテ第二2:24,25です。パウロはこう書いています。「主の奴隷は争う必要はありません。必要なのは誰にでも穏やかに接すること、教える資格があること、不当な扱いを受けても自分を抑えること、好意的でない人たちを温和な態度で教えることです。もしかしたら神はその人たちが悔い改めて真理の正確な知識を得られるようにされるかもしれません。」パウロがここで言っている「好意的でない人たち」とは誰のことでしょうか。この聖句の英語のスタディー版聖書の注釈にはこうあります。「パウロが使っているギリシャ語の言葉はこの文脈ではクリスチャンの教えに抵抗したり、その教えに反して行動したりする人たちを指している。パウロは特に聖書のアドバイスに従ったり教え導く人たちの訓戒を聞き入れたりすることを否定的に捉えていたエフェソス会衆の人たちのことを念頭に置いていた可能性がある。」

⇒っていうか、スタディー版聖書の注釈書いたの自分たちじゃん。しかも、「…可能性がある」って。おいおい。根拠薄弱…。

今では聖書のアドバイスを無視して重大な悪事を犯す会衆の兄弟姉妹がこの「好意的でない人たち」に含まれます。そういう人たちは長老に助けてもらわなければいけません。それで長老たちから成る委員会がその人と話し合います。長老たちが目指しているのはその人が心を入れ替えているかを判断して裁くことではありません。むしろテモテ第二2:24,25に書かれている通りにします。長老たちは温和な態度でその人を教え正さなければいけません。何を目指してですか。同じ2:25の別の注釈にはこうあります。「クリスチャンの長老が『好意的でない人たち』を穏やかに正したり教えたりすると、その人が悔い改める、つまり『考えを改める』という良い結果になることがある…その人が考えや態度を変えたのはどんな人間の功績でもなく、エホバの功績。強情だったクリスチャンがその重要な変化を遂げるよう助けたのはエホバだから。パウロはそう書いた後そうした悔い改めの素晴らしい結果を幾つか挙げている。つまり真理の正確な知識を得ること、本心に立ち返ること、サタンのわなから逃れることである。」それで長老たちが目指すのはその人が悔い改めるよう助けることです。テモテ第二2:24,25をよりよく理解できるようになった今、従来のやり方を変える必要があるでしょうか。これまでは委員会が悪いことをした人と話し合うのは普通1度だけでした。でも統治体は委員会がその人と複数回話し合うことにしてもよいと判断しました。どうしてですか。啓示2:21にはイエスが「イゼベルのような女性」に対して「悔い改めるための時間を与え…た」とあります。長老たちが愛情深く正すよう努める時に強情なその人はエホバに助けてもらって本心に立ち返り、生き方を改めるかもしれません。悪いことをした人が悔い改めるなら、委員会はその人がサタンのわなから逃れ、自分の足で真っすぐ歩いていけるよう牧羊を続けます。この新しいやり方はダビデやイスラエル人に何とか立ち返ってほしいと思って助け続けたエホバの姿勢に倣うものです。

⇒審理委員会が話し合う機会が1回から複数回になったからって、何が変わるんだろうか。だって、審理委員会のメンバーって、あの程度の人たちですよ。いわゆる「地元の世話役」ww。

ではバプテスマを受けた18歳未満の未成年者が重大な悪事に関わる場合はどうでしょうか。これまではバプテスマを受けた未成年者はクリスチャンである親と一緒に委員会と話し合わなければいけませんでした。これからは2人の長老が本人そしてクリスチャンである親と話し合います。長老たちはその子が心を入れ替えられるよう助けるために親がどんなことをしてきたかも確かめます。親がその子を助けようと努力していてその子も素直に応じているなら2人の長老はそれ以上対応する必要はないと判断するかもしれません。もちろん長老たちはその子をきちんとサポートしているかを時々親に確認します。ではバプテスマを受けた未成年者が振る舞いを改めず悪いことを続けるならどうなりますか。その場合長老たちから成る委員会がクリスチャンである親と一緒にその子と話し合います。こういう調整は悪いことをした人に心を入れ替えてほしいと思っているエホバの願いに沿ったものだと統治体は確信しています。エホバはその人が「本心に立ち返って悪魔のわなから逃れ」ることを願っています。「神は一人も滅ぼされることなく、全ての人が悔い改めることを望んでい」ます。

⇒未成年者の取り扱いってこうだったんですか?しかし、「それ以上対応する必要はない」ってことは、ほぉっておくってこと?よく分からんすね。

では2つ目の聖句は何でしょうか。コリント第一5:13です。「皆さんの中から悪い人を除きなさい。」聖書ははっきりと悪いことをして改めない人を会衆から除くようにと教えています。それはその人自身が自分で選んだことの結果です。どうしてそうなりますか。長老たちが生き方を改められるよう愛情深く繰り返し助けたにもかかわらず応じるのを拒んだのは本人だからです。でも長老たちはその人を会衆から除くことにするとしても二度と戻ってこれないという印象を与えないようにします。それで委員会は会衆に戻るために何が必要かただ説明する以上のことをします。いったい何でしょうか。長老たちは数カ月後にまた話し合いたいと思っていることを伝えます。その人が心を入れ替えたかどうか確かめるためです。本人がその話し合いの場に来るなら長老たちは生き方を改めて会衆に戻ってくるよう温かく勧めます。では以前に排斥された人、もしかすると何年も前に排斥された人はどうでしょうか。中には自分がなぜ排斥されたのかを覚えていない人もいるかもしれません。ずっと前に悪いことをやめているという場合もあります。統治体は長老たちにはそういう人を訪ね、一緒に祈り、会衆に戻ってくるよう温かく勧める責任があると判断しました。かなりの期間にわたって会衆を離れていた人はエホバとの絆がとても弱くなっているはずです。それで本人が望むなら長老たちはその人が会衆に復帰していなくても聖書レッスンを受けられるよう取り決めます。もちろんその人が会衆に戻りたいと願っていなければいけませんし、そういう聖書レッスンは必ず長老たちが取り決めます。統治体は罪を負った人間を深く思いやっているエホバに倣いたいと願っています。それでできるだけ多くの人に温かく手を差し伸べて会衆に戻るための道が開かれていることを伝えます。もしこの話を聞いているあなたが今排斥されているなら、あなたが会衆に戻ってこれるよう力を尽くしている長老たちのサポートを受け入れて下さい。今住んでいる地域の長老の連絡先が分からないなら遠慮なく王国会館に行ったり、電話したりして下さい。そうやって助けを求めて下さい。エホバはあなたに帰ってきてほしいと思っています。私たちもです。

⇒なぜ排斥されたのか覚えていない人っています?あんな密室の非公開の尋問で、ある事ない事聞かれて、もし排斥の理由を覚えてないとしたら、それは審理委員会の手落ちなんじゃじゃないの?

もちろん私たちはコリント第一5:11に書かれている通り、会衆から除かれた人とは「接するのをやめ」ます。そのような人とは「一緒に食事をしてもなりません」とも書かれています。これは会衆から除かれた人とは交友を持ってはいけないという意味です。とはいえこれはクリスチャンが排斥された人を会衆の集会に招待してはいけないという意味ではありません。排斥されているその人は皆さんの家族や親戚、あなたがレッスンで教えた人、あるいは親しくしていた人かもしれません。3月24日日曜日に記念式を祝うことになっています。1年で一番大切な集会を控えた今この調整がなされるというのは本当にいいタイミングだと思いませんか。では排斥された人が集会に来たらどうしますか。これまでは会衆から除かれたその人にあいさつすることはありませんでした。でも統治体は会衆から除かれた人が集会に来たとき、簡単なあいさつをしたり、歓迎したりするかどうかは伝道者それぞれが聖書の教えによって整えられた良心に沿って決定できると判断しました。

⇒ここね。これがおそらくノルウェーの裁判を経て、何とか信者と世論とのバランスとって導き出したアイデアって感じですかね。しかしですね、これ、挨拶はするようになりますよ。少なくとも私はする。だって、その方が自然だもん。ただ、そうするとね、我が会衆にも一定数いるんですけど、ゴリゴリの原理主義者みたいな一世は、「排斥は、会衆の清さを守るための取り決め!ムキー!」って反応しますよ。その辺りの、会衆内の意思の融和をどうするんかな、っていうのは若干興味ありますね。

こんにちは。会えてうれしいよ。ありがとう。

 

⇒これは挿入されたビデオの一場面です。

 

もちろん長く会話したり、交友を持ったりすることはしません。そうだとしてもその人を無視する必要はないということです。では3つ目の聖句はこのことにどう関係しますか。ヨハネ第二9-11です。読んでみます。「キリストの教えを踏み越え、その教えに従い続けない人は皆神と結び付いていません。キリストの教えに従い続ける人は父とも子とも結び付いています。キリストの教えに従わない人があなたたちの所に来たら家に迎え入れてはなりませんしあいさつの言葉を掛けてもなりません。あいさつの言葉を掛けるならその人の悪い行いに加わることになります。」この言葉からすると会衆から除かれた人には誰にもあいさつの言葉を掛けてはいけないということでしょうか。統治体はこの聖句の文脈を調べてよく考えました。そして使徒ヨハネがここで言っているのは、背教者や悪いことを奨励する人のことだと結論しました。ヨハネはクリスチャンがそういう人たちから悪い影響を受けないようにあいさつの言葉を掛けてもいけないと強く指示していました。それでもし排斥された人が背教していたり、悪いことを奨励していたりするなら長老たちがその人を訪ねることはありません。クリスチャンはそういう人にあいさつすることも会衆の集会に来るよう勧めることもしません。この話ではエホバが悪いことをした人に、生き方を改めてほしいと願っていることを考えました。また3つの聖句をよりよく理解できるようになったことでそういう人にどう接するべきかも分かりました。テモテ第二2:24,25に書かれている通り、長老たちの委員会は悪いことをした人を愛情深く教え正します。悔い改めるよう助けるためです。コリント第一5:13にある通り、あくまでも悔い改めようとしない人は会衆から除かれなければいけません。それでも委員会は本人が生き方を改めるべきことに気付いて戻ってこれるよう精いっぱい助けます。数カ後に話し合いの場を設けることもします。ヨハネ第二9-11もよりよく理解できるようになりました。この聖句で言っているのは背教者や悪いことを奨励する人たちのことです。クリスチャン会衆から除かれた人全員を指しているわけではありません。エホバは最初の人間夫婦が過ちを犯してからずっと、悔い改める人たちを救うために力を注いできました。もちろんエホバは何でも大目に見るわけではありません。生き方を改めない人が自分のしたことの報いを受けないよう、守ることもしません。でもエホバはその人に何とかして戻ってきてほしいと思っています。愛しているからです。エホバは一人も滅ぼされてほしくないと思っているので、考えを改めるよう呼び掛けています。長老たちはそのエホバと一緒に働いて悪いことをした人が悔い改めるよう助けることができます。本当に栄誉なことです。エホバの愛、憐れみ、思いやりについて深く考えるとき私たちのエホバへの愛はどんどん強くなっていきます。この話で考えたことはいずれ研究用の「ものみの塔」誌の幾つかの記事で詳しく説明されることになっています。ぜひ楽しみにしていて下さい。さらに長老たちにはこのことをどのように実践できるかについての指示が与えられます。エホバの愛や憐れみが表れたこの新しい指針に沿った取り組みをエホバが後押ししてくれるよう願っています。

⇒この部分では、悪行で排斥された人に対する態度と、背教的な人に対する態度とを明確に分けてきたって感じですかね。

最後に統治体から次のお知らせを読むよう依頼されています。「統治体は姉妹たちが伝道するとき、あるいはクリスチャンの集会や大会に出席するときスラックスを着用してもよいと判断しました。姉妹たちがそういうときに着用するスラックスはカジュアルなものではなく上品で慎みの表れたその場に合ったものであるべきです。姉妹たちがプログラムに参加するときはそれがその地域で一般的ならスカートを着用するべきです。もちろんプログラムに参加しない姉妹の中にもスカートを着用したいと思う人がいるかもしれません。さらに兄弟たちは伝道するとき、あるいはクリスチャンの集会や大会に出席するとき、ネクタイやジャケットを着用しないことにしても構いません。兄弟たちはそのようなときに、ネクタイやジャケットを着用しない場合もカジュアルではなく上品で慎みの表れたその場に合った服装をするべきです。兄弟たちがプログラムに参加するときは、それがその地域で一般的ならネクタイやジャケットを着用するべきです。もちろんプログラムに参加しない兄弟の中にもネクタイやジャケットを着用したいと思う人がいるかもしれません。ベテルを訪問するときはそれがその地域で一般的なら兄弟たちはネクタイやジャケットを着用し、姉妹たちはスカートを着用するのが望ましいでしょう。」皆さん全てを愛しています。エホバの証人の世界本部からJWBroadcasting®でした。

⇒来た~!ついに、女性のパンツスタイル解禁。これは嬉しいと思ってる姉妹たち、多いんじゃないでしょうか。あと、兄弟たちですけど、「プログラムに参加する時は、地域で一般的ならネクタイやジャケットを着用すべきです。」って言ってますけど、「スーツを着用すべきです。」とは言ってないですよね?ということは、今後演台では、ジャケ・パンで割当果たしてもオケってことですかね?これは嬉しい。ベテル見学の時?行かない、行かないよ、あんなところ。

ということで、個人的には教理が緩~く軟化してきたなぁ、お湯が適度にヌルくなったなぁ、という感じの変更ですが、その一方で、あぁ、我が教団も、こうやって世論に日和るようになったんだなぁ(遠い目…)という、若干の寂しさも感じたりも致します。(ウソです。)

いずれにしましても、おそらく、世界最速のレビューだと存じます。春の夜長(なんやそれ?)にお目通しいただけますと、現役エンホーといたしましては、望外の喜びでございます。それでは皆様、良い週末を。Have a happy weekend!!