皆様、明けましておめでとうございます。
正月気分も抜けきらない中、ブロキャスの1月として、2023年年次総会パート2がアップされておりました。しかも、約1時間50分という長尺。おれはこんなことをするために仕事が休みじゃないんだよぅ、と思いながらも、少なからず全文書き起こしを待ってくださっている方もおられるということで、無理して作業しております。それでは、張り切ってお読みください。(以下、太字斜体部分は放送からの書き起こし。)

2024年1月のJWBroadcasting®へようこそ!11月に年次総会のプログラムのパート1を楽しみました。今月はパート2をご覧いただきます。
それでは1つ目のシンポジウムです。話をした兄弟が次に話す兄弟を紹介します。最初に話すのはジェフリー・ウィンダー兄弟です。話のタイトルは「光はどのように明るさを増していくか」
最近の年次総会ではよりよく理解できるようになった真理が説明されてきました。聖書が教えている真理の光が明るくなってきたということです。もちろん毎回の年次総会でというわけではありません。でもエホバはよく年次総会のタイミングで新しいことを知らせてきました。今日も光が輝くでしょうか。クック兄弟がちょっと言っちゃってましたね。今日のプログラムでどんな話が聞けるか本当に楽しみですね。でもこんなふうに考えたことがありますか。「エホバは今この時代にどうやって聖書の真理に光を当ててよりよく理解できるようにしてくれるんだろう。」では「忠実で思慮深い奴隷」として働く統治体はそのことにどう関わっていますか。エホバは光をより輝かせるために忠実で思慮深い奴隷をどんなふうに使っているでしょうか。まず聖書が何と言っているか見てみましょう。


⇒今回のプログラム、至る所で統治体の統治体による統治体を礼賛するセリフが出てきますよ。

4つ考えます。1つ目はエホバが光を明るくするとき何を使うかということです。コリント第一2章をお開き下さい。コリント第一2:10を読みます。「神はその事柄を聖なる力によって私たちに啓示しました。聖なる力は全ての事柄を明らかにします。神の奥深い事柄さえもです。」エホバが何を使うかはっきり分かりますね。聖なる力です。聖書をよりよく理解するためには聖なる力が欠かせません。2番目にエホバは誰を通して新しいことを知らせますか。マタイ24:45をご覧下さい。マタイ24:45「主人が召し使いたちに適切な時に食物を与えるため彼らの上に任命した忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか。」キリストは「忠実で思慮深い奴隷」を任命しました。エホバはイエスとこの奴隷を通して私たちの信仰を強くする食物を与えます。ここまでの2つから真理をよりよく理解できるようにするために何が使われるかが分かりました。エホバは天から地球に情報を伝えるために聖なる力と「忠実で思慮深い奴隷」を使います。3番目にエホバはいつ光を明るくしますか。もう一度マタイ24:45を見てみましょう。奴隷は「適切な時に食物を与える」とあります。ここからちょうどいいタイミングがあることが分かりますね。エホバは私たちがエホバの望むことを推し進めるために一番いいタイミングで新しいことを教えてくれます。4番目にエホバはどんなペースで光を明るくしていきますか。一気にまとめてですか。それともゆっくりちょっとずつですか。格言4:18から答えを見てみましょう。格言4:18です。こうあります。「しかし正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。真昼になるまで明るさを増していく。」夜明けの光に例えられています。「ものみの塔」誌にはこう書かれていました。「この聖句はエホバがご自分に仕える人たちに対してご自分の目的を徐々に明らかにしていくことを示しています。」夜明けの光が少しずつ明るくなっていくように聖書の真理も必要な時に私たちが付いていけるペースで少しずつ明らかになっていくということです。そのことに感謝できます。実際の光も少しずつ明るくなっていく方が目に優しいですよね。真理の光が明るくなるときにも同じことが言えます。アブラハムのことを考えてみて下さい。アブラハムはエホバがその時考えていたことを全部知らされたとしたら、理解できたでしょうか。イスラエルの12部族、モーセの律法、キリストの役割、贖い、1世紀のクリスチャン会衆、天に行く希望、終わりの日、大患難の詳細についてなどです。そんなこと言われてもちんぷんかんぷんだったでしょうし知る必要もありませんでした。アブラハムはその時エホバに仕えていくために必要なことを知らされていました。私たちが「真の知識が満ちあふれ」ると予告されていた終わりの時代に生きていられるのはうれしいことです。でもその知識は私たちがきちんと理解し役立てられるように付いていきやすいペースで与えられます。このことをエホバに感謝できます。現代真理の光がどのように明るくなっているか聖書と私たちが経験していることから考えました。

⇒次のセリフにぜひ注目してくださいよ。


エホバは聖なる力を使い「忠実で思慮深い奴隷」を通して少しずつぴったりのタイミングで教えてくれます。こうやって考えると聖書のある教えをそれまで正しく理解していなかったことを恥ずかしく思ったり申し訳なく思ったりしなくてもよいと分かります。エホバが必要な時に真理をより正確に理解できるようにするからです。統治体は完璧で間違えることはないということはありません。聖句の意味を理解し損ねたり、出した指示を変更したりすることもあります。統治体はその時その時でベストを尽くしています。でもエホバが、調整が必要だと判断するとき喜んでそれに従います。そして兄弟姉妹にもそのことを伝えます。エホバのタイミングで物事が動いていることが分かっているのでみんな進んで受け入れます。

⇒それを言っちゃあ、おしめぇよ!って感じ。「おれら、間違っても知らんよ、その時はそう思ったんやから。」って、究極の開き直りね。

もう少し具体的に見てみましょう。先ほど聖書から4つのことを考えました。では統治体が集まって話し合うときエホバはどんなふうに兄弟たちが聖書をよりよく理解できるよう助けるでしょうか。気になりますね。ぜひ知りたいと思います。エホバは必要以上に物事を隠すような方ではありません。実際聖書には1世紀のクリスチャンが真理をよりよく理解できるようになったプロセスが記録されています。西暦49年ごろ当時のクリスチャンの間に解決しなければいけないことが持ち上がりました。問題になっていたのは異国人が救われるためには割礼を受けてモーセの律法に従わなければいけないのかということでした。そのままにしておくと会衆がばらばらになってしまいかねません。それで使徒や長老たちつまり当時の統治体のもとにこの件が持ち出されました。ガラテア2:2でパウロは「啓示があった」のでエルサレムの兄弟たちにこのことを話した、と言っています。クリスチャンみんなにとって大切なこの問題を解決するためにキリストが自ら事を導いていました。そしてエホバは使徒15章に統治体がどんな話し合いをしたか記録させました。私たちもまるでそこにいるかのようにその時のやりとりを知ることができます。聖なる力がどんなふうに働き聖書をどう使ったかそしてどんなふうに結論を出し会衆に伝えたかがよく分かります。そのプロセスは今も大きく変わってはいません。一緒に使徒15章を開いてどんなことがあったか見てみましょう。使徒15:6にこうあります。「使徒や長老たちはこの件について調べるために集まった。」大事な問題が持ち上がり当時の統治体のところに提出されました。7節から「活発な論議」があったことが分かります。兄弟たちは自由に意見を交わしました。敬意を込めつつも思っていることをはっきり伝えます。そうやっていろいろな角度から問題を検討しました。同じ7節でペテロが立ち上がります。この絵に描かれているのはその時の様子かもしれません。ペテロはコルネリオが改宗した時にあった出来事を基に発言します。そうやっていろんな事実が検討されました。核心を突くペテロの言葉に心を動かされて12節にある通り「一同は黙り」ます。ここに謙虚な姿勢が見て取れますね。兄弟たちは自分の意見にこだわったりそれを人に押し付けたりはしませんでした。みんなで心を一つにしてエホバが何を望んでいるか知ろうとしました。今度はパウロとバルナバが自分たちが経験したことを話します。検討できる事実や証拠がさらにたくさん集まります。13節でヤコブが話し始めエホバの考えに沿った結論が出せるよう聖句を引用します。ヤコブは「神が…異国の人々に注意を向けて…ご自分の名のための民を取り出した。」と言ってアモス9:11,12の通りになっていると指摘します。19から21節でヤコブはどうするとよいかを提案します。そして25節によると統治体は全員一致で決定しました。22節を見ると決定したことを会衆に伝えるために兄弟たちが送り出されたことが分かります。決定に至るこのプロセスを調べると兄弟たちが聖書を使いキリストのリーダーシップに従い聖なる力の流れに合わせようとしたことがよく分かります。エホバは決定に至るこのやりとりを聖書に書かせました。隠したりはしませんでした。今でも同じようなプロセスで決定が下されています。2010年の「ものみの塔」誌にはこうあります。「霊的な事柄を明確にする時が来ると聖霊は…『忠実で思慮深い奴隷』…がそれまで理解していなかった深い真理を識別できるように助けます。統治体は一団として説明の調整について検討します。そして分かった事柄をすべての人の益のために公にします。」

⇒この後、調整のプロセスが紹介されますけどね…これもまぁ、見てくださいよ。

今のプロセスは大体こんな感じです。まず何かの疑問が持ち上がります。統治体のメンバーが自分で聖書を読んだり勉強したりしている時に疑問を感じることもあります。あるいは信仰を強める食物の準備や翻訳の途中でさらに検討が必要なことに気付く場合もあります。世界で起きている出来事がきっかけで預言をもっと調べなければいけないと気付くこともあります。こんなふうに疑問が持ち上がります。そしてそれは統治体の話し合いの議題に含められます。統治体はまず次のことを判断します。「今考えている疑問についてさらに調査する必要があるだろうか。」この段階ではまだ調整が必要かどうかを判断しているわけではなくもっと調べるかどうかを決めます。さらに調査すべきだということになればリサーチチームが編成されます。調査し結果を基に統治体に推薦案を出すためです。チームは1879年以来私たちが発行してきた本や雑誌でそのことがどのように説明されてきたかを調べ概要をまとめます。さらに検討している聖句の文脈から何が分かるかを調べます。同じ出来事が聖書の別の所にも記録されている場合があります。そういう記述から分かることも調査します。最後に聖書が書かれた元のヘブライ語やギリシャ語の意味合いも考慮します。そうして調査結果がまとめられるとその件はもう一度統治体の話し合いの議題に含められます。統治体のメンバー一人一人は話し合いの前にまとめられている情報を調べじっくり考えます。そして統治体の会合でこのことが話し合われます。よく祈りエホバの聖なる力に導いてもらえるようにします。会合の時は誰も結論を急いだり自分の意見を押し通そうとしたりしません。でも調べたことやじっくり考えたことを基に自由に意見を交わします。先ほど考えた1世紀の統治体の話し合いと同じです。みんな謙虚な姿勢でそうします。自分の意見にこだわったりそれを人に押し付けたりしません。むしろみんなで心を一つにしてエホバの考えを見極めようとします。エホバがどの方向にかじを切ろうとしているかを知ろうと努めます。目指しているのはエホバの考えに合った判断をすることです。時には最終的な決定が、リサーチチームが挙げてくれた推薦案とはかなり違ったものになることもあります。でも「忠実で思慮深い奴隷」が聖なる力に導かれて決定していることは確かです。全員一致で決定できるようにします。調整が必要そうに思えても全員が賛成していないならまだ決めるべき時ではないのかもしれません。そういう場合は急いで進めるのではなくいったん保留にします。少したってあるいは数年後に再び検討すると意見がまとまるということもあります。前回は十分理解できていなかったことが分かり、確信を持って決定できるようになるということもあります。こんなふうによく祈り全員一致で結論を出せたらエホバが物事を導いていることを確信して兄弟姉妹にお知らせできます。今お話ししたようなプロセスを経て真理の光は私たちの時代に明るさを増していっています。

⇒なに?単なる思い付きで調整が検討され始めることもあるわけ?ってことは、アゴヒゲOK、タイトパンツNGもお前らの思い付きからかよ?

確かにどんなふうに真理の光が明るくなるかということは興味をそそります。でも私たちの胸を打つのはどうして光が明るくなるのかということです。アモス3章を開いて一緒に読みましょう。アモス3:7にこうあります。「内密のことを預言者に啓示してからでなければ主権者である主エホバは事を行わない。」ここからエホバの私たちへの信頼が伝わってきますね。揺るぎない愛も伝わってきます。エホバが私たちを教えこれから何が起きるかを伝えて準備させてくれています。ぴったりのタイミングで必要なことを知らせてくれます。本当に安心できますね。この世界の終わりが近づくにつれてサタンはますます。激しく私たちを攻撃してきます。でも大患難でサタンの支配する世の中が滅ぼされる時が近づくにつれてエホバはさらにたくさんのことを教えてくれます。神エホバは何があっても私たちから離れず大切なことを理解できるよう助け導いてくれます。どこに行ったらいいか、何をしたらいいか分からなくなることは決してありません。闇の中をさまよってつまずく心配もありません。エホバはこう言っているからです。「正しい人たちの道は夜明けの光のようだ。真昼になるまで明るさを増していく。」今考えたことを頭に入れたまま次の2つの話を聞きましょう。まずデービッド・スプレーン兄弟です。タイトルは「憐れみ深く『地上の人全てを裁く方』を信頼する」

⇒次は、インチキ大学教授風情の、“タマゴ頭”スプレーンの話です。

エホバは天使を通して大切な友アブラハムにソドムとゴモラを滅ぼそうとしていることを伝えました。天使はこう言います。「ソドムとゴモラの罪は極めて重く彼らについての苦情の叫びはあまりにも大きいです。」アブラハムは戸惑います。ソドムとゴモラを滅ぼすことを決める前にエホバは本当に全ての事実を確認したんだろうか、と思ったのかもしれません。それでこう尋ねます。「地上の人全てを裁く方は正しいことを行われるのではありませんか。」私たちにはこう尋ねた。アブラハムの気持ちが分かります。この頃はまだエホバとの友情を育て始めたばかりでした。エホバの性格についてまだまだ知るべきことがありました。後にエホバのことをもっとよく知るようになったアブラハムがそんなふうに尋ねるとは思えませんよね。では皆さんは真理を学び始めた頃同じように尋ねたことがありますか。こういう疑問を感じたかもしれません。「洪水についてノアから聞くチャンスがなくて死んでいった人は誰も生き返らないんだろうか。ソドムとゴモラが滅ぼされた時死んだ人は誰も生き返ることはないんだろうか。女性や子供や赤ちゃんも?エホバの天使が一晩で打ち倒した18万5000人のアッシリアの兵士はどうだろうか。本当に一人も生き返らないのかな?」私たちには答えは分かりません。でも分かっていることがあります。「地上の人全てを裁く方」が正しいことをするということです。いやちょっと待って下さい。さっきの質問の答えは本当に分からないんでしょうか。調べてみましょう。以前はノアの時代の洪水で亡くなった人やソドムとゴモラが滅ぼされた時に死んだ人には生き返る見込みがないと理解していました。でも本当にそうでしょうか確かにソドムとゴモラの人たちはとても悪く滅ぼされても仕方ありませんでした。とはいえ自分たちが悪いことをしてると分かってたんでしょうか。そういうことをロトたち家族から教えてもらうチャンスがどれぐらいあったんでしょうか。もし特別開拓者がソドムに遣わされていたとしたらどうなったでしょうか。ソドムの人たちはエホバについて学んで生き方を改めたでしょうか。仮にソドムの人たちが正しいことと悪いことについてのエホバの基準を学んでいたら結果は違っていたでしょうか。そのことについてイエスが何と言っているか見てみましょう。マタイ11章です。マタイ11:23,24です。11:23からイエスはとても興味深いことを言っています。「カペルナウムよあなたが天に上げられるようなことがあるでしょうか。あなたは墓に下るのです。[次に注目です。]あなたの中でなされた強力な行いがソドムでなされていたならソドムは今日まで残っていたでしょう。実際裁きの日にはあなたより、ソドムの方が処罰が軽いでしょう。」「ソドムは今日まで残っていたでしょう」とあります。エホバの天使はアブラハムにもし10人正しい人がいればソドムは滅ぼされないと言いました。では仮にイエスがソドムで伝道し強力な行いをしていたらどうなったんでしょうか。10人の正しい人が見つかって町は滅ぼされずに済んだでしょうか。エゼキエル16章でエホバが自分から離れかけていたユダの人たちに言ったことにも注目できます。そこでエホバはユダに住んでいる人よりソドムで暮らしていた人たちの方がましだと言っています。だとするとユダの人たちも生き返らないことになりますね。ではユダ7のソドムとゴモラが「永遠の火による処罰を受け」たという言葉はどういう意味でしょうか。ソドムとゴモラの町もそこに住んでいた多くの人も永遠に滅ぼされたということです。では一人も生き返らないということでしょうか。先ほど読んだイエスの言葉からするとそうとも言えないようです。もちろんはっきりしたことは分かりません。でも「地上の人全てを裁く方」が正しいことをするのは確かです。次にノアの時代の洪水について考えましょう。以前は洪水で死んだ人は誰も生き返らないと考えていました。では聖書は何と言っていますか。ノアの時代の人たちがとても悪かったと言っています。当時の状況について「地上の人々がひどく邪悪で考え方全てが常に悪い」とあります。この時代に生きていた人たちは洪水についてどれぐらい聞いていたんでしょうか。ノアと家族は箱船を造るのに大忙しでした。どれぐらいの時間伝道できたんでしょうか。ちゃんと全部の区域を回れたんでしょうか。ベテルからあまり遠くない所に住んでいてもエホバの証人について聞いたことがないという人がいます。そう考えると当時生きていた人の中にもノアとノアがしていることを知らない人もいた可能性があります。こういうことも考えられます。もしノアの時代に生きていた人の誰かがエホバについて十分学んでいたらその人はエホバに背を向けなかったかもしれません。断言はできませんけどね。もちろんエホバが洪水で死んだ人を生き返らせないとしても文句を言うことはできません。その人たちは生きていました。それだけで素晴らしいことです。よく知っているようにアダムとエバが罪を犯した後、エホバは2人をすぐに滅ぼすのではなく子供を持てるようにしました。そのおかげで私たちは生きています。それで今皆さんや私がこうして生きていられるのはひとえにエホバの惜しみない親切のおかげです。私たちは何年も聖書に出てくる人で父祖たちと共に葬られた人は将来生き返るだろうと考えていました。例えばソロモンです。聖書にはソロモンが亡くなった後どうなったかが書かれています。「ソロモンはやがて死に父ダビデの町に葬られた」とあります。こうして父祖たちと共に葬られた人は死んだ人たちが眠っている比喩的な墓にいると考えられてきました。そしてキリストの千年統治の間にその墓は空になります。でもこう思ったことはありませんか。「誰かが父祖たちと共に葬られたということはその人が最後までエホバに喜ばれたということなんだろうか。聖書にはエホバがある人を最終的にどう見ていたかということが全部書かれているんだろうか。それとも単にどういうふうに埋葬されたかが書かれているにすぎないんだろうか。」聖書が書かれた時代人がどう埋葬されるかはとても大事なことでした。ヨセフとヤコブはエジプトに葬られることを拒みました。大祭司エホヤダは善いことをしたのでユダの王たちと共に葬られました。預言者から亡くなった後「死んだロバ」のように扱われると言われた王もいました。不名誉極まりないですね。ソロモンはこれまでに生きた人の中で2番目に賢い人でした。エホバは2度目にソロモンに現れた時こう言いました。「もしあなたたちやあなたたちの子が私に従うのをやめ…ほかの神々に仕え始めてひれ伏すなら私は…土地からイスラエルを排除[する]。」ではソロモンは何をしましたか。「ほかの神々に仕え始めてひれ伏す」ようになりました。「地上の人全てを裁く方」はそれをどうご覧になったでしょうか。私たちには分かりません。父祖たちと共に葬られた人が将来どうなるかについてはっきりしたことは言えません。聖書は単にある人がどう埋葬されたかを伝えているだけかもしれません。だからといってその人たちが生き返らないと言っているわけではありません。私たちには分かりません。でもエホバは分かっています。エホバはいつも正しいことをします。私たちはそのことをよく知っていますし、心から信じています。エホバが昔したことを考えてみましょう。ヨエルの時代のイスラエル人はエホバとの絆がとても弱くなっていました。バアル金の子牛聖木を崇拝していました。うそをつき姦淫を犯し盗み暴力を振るい弱い立場にいる人を苦しめていました。エホバがイスラエルを滅ぼそうと思ったのも不思議ではありません。でもヨエル2:13にはこうあります。「衣服ではなく心を引き裂きあなたたちの神エホバのもとに戻れ。神は思いやりがあって憐れみ深くすぐに怒らず揺るぎない愛に満ちている。神は災いについて考え直す。」「神は災いについて考え直す。」ひどいことが行われていましたが、すぐに処罰したりはしませんでした。そう考えると安心できます。どうしてですか。多くの兄弟姉妹は真理を学ぶ前にそれとは知らずに犯してしまった過ちをエホバが許してくれるということを素直に受け入れられます。でもバプテスマを受けた後に犯した過ちについて、エホバは本当に許してくれるんだろうかと不安に感じる人もいます。ではヨエルの聖句から何が分かりますか。イスラエルは国民としてエホバに献身していましたがエホバはいわばこう言っています。「悪いことをやめて正しいことをすれば私は考え直す。」エゼキエル33章に書かれていることからも力がもらえます。自分がしたことをエホバは許してくれないんじゃないかと不安に感じている兄弟姉妹にとって慰めになる聖句です。エゼキエル33:14,16。14節「一方私が悪い人に『あなたは必ず死ぬ』と言うとする。もしその人が罪から離れて公正で正しいことを行[うなら]」、16節「その人は犯したどの罪についても責められることはない。公正で正しいことを行ったために必ず生き続ける。」真理から離れ悪いことをしていた人にとって力になる言葉です。残念なことに多くの人はエホバは自分のことを許してくれないと考えています。エホバのもとに戻ってやり直したいと思っていますがエホバが受け入れてくれるか不安に感じています。でもエホバは「犯した。どの罪についても責められることはない」と言っています。マナセ王のことを思い出して下さい。イスラエル人だったマナセは献身していましたが生涯のほとんどを悪いことをして過ごしました。でも過ちを悔やんで生き方を改め正しいことをした時にエホバはすっかり許しました。私たちが崇拝する神は本当に憐れみのある方です。エホバはそうできるときにはいつも憐れんで許してくれます。ヨナの時代ニネベに住んでいた人たちについてはどうでしょうか。とても悪いことをしていたのでエホバはニネベを滅ぼすことにしました。ヨナもそれでいいと思っていました。「どうぞやっちゃって下さい。」でもエホバはヨナよりずっと憐れみのある方です。ニネベの人たちが反省し生き方を改めた様子を見て快く許しました。どうしてでしょうか。その人たちは「何が良くて何が悪いかを知らな」かったからです。分かっていなかったということです。その人たちは生き返るでしょうか。マタイ12:41のイエスの言葉からするとおそらく生き返ります。「ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に復活しこの世代を断罪します。ニネベの人々はヨナの伝道によって悔い改めたからです。しかし見なさい。ヨナを上回る者がここにいます。」こういう例から何が分かりますか。ニネベの人たちやマナセやほかの人の例からです。邪悪でとても悪いことをしました。でも悔やんで生き方を改め良いことをしました。するとエホバはすっかり許しました。今ではエホバのほかにも地上の人全てを裁く方がいます。一体誰のことなのかヨハネ5章を開いて読んでみましょう。ヨハネ5:22をお読みします。5:22「父は誰一人裁かず裁くことを全て[裁くことを全て]子に委ねています。」イエスには生きている人と死んでいる人を裁く権限が与えられています。イエスが憐れみ深く裁くと信頼できますか。もちろんです。イエスはお父さんエホバにそっくりです。預言者イザヤがこう書いている通りです。「彼は…見える事柄だけに基づいて裁くことをせず、聞いた事柄だけに基づいて戒めることもしない。立場が低い人たちを公平に裁き地上の温厚な人たちのために公正に戒めを与える。」エホバはイエスに亡くなった人を生き返らせる権限も与えました。イエスは「復活であり命です。」エホバは亡くなった人のことを細かいところまで全て覚えていますね。そしてイエスが人を生き返らせるということはイエスも亡くなった人と生きている人みんなの細かいところまで全て知っているということです。だからこそその人を生き返らせることができます。天に行くクリスチャンにも人を生き返らせる権限が与えられるかどうかは分かりません。これも将来分かることです。

⇒この後、話し手自らまとめに入りますけど、まぁ、嫌みな野郎ですよ。

この話でどんなことを考えましたか。今日ここにいない人に説明するとしたらなんて言いますか。こうは言わないで下さいね。「ソドムとゴモラとか大洪水で死んだ人は生き返るんだって。でもソロモンは生き返らないらしいよ。」これはやめて下さいね。この話でお伝えしたかったのは誰が生き返って誰が生き返らないのか決め付けるべきではないということです。私たちには分かりません。でも私たちはエホバとイエスを信頼しています。お二人はいつも正しいことをするからです。分かりますよ。皆さんの頭は今フル回転しています。きっと「ちょっと待って下さい。大洪水でしょ?ソドムとゴモラでしょ?じゃあ大患難の時はどうなるの?何か分かっていることないの?」そう思ってるんじゃないでしょうか。いい質問です。ぜひお伝えしたいと思います。あらら、もう時間みたいです。

⇒ね?ヤな感じでしょ?しかも、話の終わり方が、「あらら、もう時間みたいです。」って。シンポジウムで次の話し手すら紹介しないのね。

私に回ってきてしまいました。ほかのことを話せる空気じゃないですね。ここまででどんなことを学びましたか。次のことをじっくり考えました。優しい天のお父さんエホバと子であるイエス・キリストが地上の人全てを憐れみ深く裁くということです。お二人が下す裁きは絶対に正しいと信じられます。エホバとイエスは心が読めます。そしてエホバは自分が決めた正しいことについての基準をずっと守ってきました。イエスもです。では将来大患難の時に下される裁きについてはどうでしょうか。これまで理解してきたことを調整する必要があるでしょうか。この話ではそのことを考えます。大患難の間に起きることについてここ数年よりよく分かるようになってきましたね。でも正直ちょっと混乱するということがあるかもしれません。こう思ったりしますか。「あれこれって前の理解だっけ?それとも今の理解だっけ?」では大患難の間にどんなことが起きるでしょうか。頭の中を整理するために振り返ってみましょう。次の動画をご覧下さい。どんな出来事から大患難が始まりますか。大いなるバビロンが滅ぼされることです。政治勢力がまるで娼婦のような間違った宗教全てに憎しみをむき出しにし、攻撃します。そして全ての間違った宗教組織が滅びることになります。では大患難の最後に何がありますか。ハルマゲドンの戦いです。この戦いをもって大患難が終わりを迎えます。イエス生き返った14万4000人たくさんの天使たちが戦いに加わります。エホバと王国に反対しエホバの証人を攻撃する敵たちと戦います。「全能の神の大いなる日の戦争」です。

⇒ジャクソンによるこの話は、年次総会終了直後から、Redditなどでも随分と話題になりましたけどね、一言でまとめると、「細かいことは、よぉ、分からん!」ってことですよ。どういうことかは読んでいただけるとわかります。

大患難の初めに起きることと終わりに起きることを確認しました。では次の質問を考えましょう。大患難はどれくらいの期間続くんでしょうか。私たちには分かりません。でもその間に予告されているいろいろなことが起きることは分かっています。そしてそれは比較的短い期間に起きると考えられます。これから特に大患難の終わりごろに起きる幾つかの出来事について手短に考えます。マゴグのゴグの攻撃が始まるのはいつでしょうか。大患難の初めごろではなく終わりに近づいた頃です。マゴグのゴグつまり諸国家の連合体が神に仕える人たちを攻撃しそれが引き金となってハルマゲドンの戦いが始まります。では地球に残っている選ばれたクリスチャンたちが天に行くのはいつのことですか。聖書のエゼキエル書によるとマゴグのゴグの攻撃が始まる時選ばれたクリスチャンはまだ地球にいることが分かります。でも啓示17:14を見るとイエスが戦う時「招かれ選ばれた…者たち」もそれに加わると分かります。天に生き返った14万4000人全員がイエスと一緒に戦うということです。それで選ばれたクリスチャンのうち残っている人が天に行くのはマゴグのゴグの攻撃が始まった後ハルマゲドンが始まる前のことです。ですから選ばれたクリスチャンが集められ天に行くのは大患難の終わりごろのことです。初めではありません。では人が羊かヤギかに分けられるのはいつですか。物事が起きる順番についてはっきりしたことは言えませんが羊かヤギかに分けられるのもやはり大患難の終わりごろと思われます。初めごろではありません。「人の子[が]栄光を帯びて全ての天使と共に来る」時裁きが下されることになります。もちろん大患難の間に起きることはほかにもあります。でも今取り上げた幾つかの出来事はどれもハルマゲドンの戦いの直前に起きることです。整理してみましょう。1つ目にイエスが人を羊かヤギかに分け悪い人たちを滅ぼすのは大患難の終わりごろのことです。2つ目に大患難の最終局面でマゴグのゴグによる攻撃が始まる時天に行くよう選ばれたクリスチャンのうち一部の人はまだ地球にいます。3つ目に一人一人は大患難の間も含めキリストの兄弟たちにどう接したかを基に羊かヤギかに分けられます。すでに分かっていることをおさらいしました。「ああこれは新しい情報だ」と思ってノートを取って人に話そうとしているならその必要はありません。では大患難の終わりごろに起きることについて今知っていることからエホバがイエス・キリストを通して下す裁きについて何が分かりますか。これまで理解していたことを調整する必要があるでしょうか。私たちは大患難が近づくにつれて将来何が起きるかをさらにはっきり理解できるようになることを知っています。エホバは一番いいタイミングでこれから起きることを理解させてくれます。私たちが大患難の間も信仰を貫いて幸せにエホバに仕えられるようにするためです。これからとても興味深いポイントを4つご一緒に考えます。時間はまだありそうですね。まず最初に考えたいのは大患難が始まった後もつまりさっきの動画で見た通り大いなるバビロンが滅ぼされた後でもエホバの証人ではない人がエホバに仕え始めるチャンスがあるかということです。大患難が始まってからも救いの扉は開かれているでしょうか。今まではこう思っていました。大患難が始まってからは世の中の人が私たちに加わってエホバに仕え始めることはできなくなる。どうしてそう考えていましたか。私たちは以前ノアの時代の洪水についての記述を予型的に捉えていました。それで大洪水が始まる前に箱船の扉が閉じられたことは大患難が始まる前に救いの扉が閉じられることを表すと理解していました。そういうことを根拠にしていました。確かにイエスは自分が王として臨在する時はノアの時代のようになると言いました。それは事実です。でもイエスは予型と対型についてあれこれ言ったりしませんでした。箱船の扉が閉じられたことには大患難が始まる前に救いの扉が閉じられるという意味があるなどとも言いませんでした。1つ目の質問は何だったでしょうか。大患難が始まった後も救いの扉は開かれているのかという質問です。そのことを考えるに当たってさっきも出てきたこの図をご覧下さい。人が羊かヤギかに分けられるのはいつのことだったでしょうか。大患難の初めごろではなく終わりごろです。こう考えてくると個人的に知っている人の顔が思い浮かぶかもしれません。エホバの証人ではない家族や排斥されている人聖書レッスンをしていた人などです。そういう人たちの中には大いなるバビロンが滅ぼされる様子を見て「確かにエホバの証人が言っていた通りだ」と思う人がいるかもしれません。そして真理を受け入れるかもしれません。ではその人たちが心を入れ替え私たちに加わったらどう感じるでしょうか。面白くないと感じますか。そういうことが起きるかは分かりません。でもヨナのようにはなりたくありませんね。「駄目です。もう扉閉じてるので駄目です。うんうん、駄目です。駄目です。」エホバだったらどうするでしょうか。一緒に聖書を開いて憐れみ深く裁くエホバが昔どんなことをしたか見てみましょう。イスラエル人がエジプトを脱出した時の記録です。出エジプト記12章をお開き下さい。出エジプト記12:38の前半に注目します。みんながエジプトを出ていくところです。出エジプト記12:38「さまざまな人も大勢一緒に行き」「さまざまな人」には脚注が付いています。脚注には「イスラエル人以外の人のことでエジプト人も含む」とあります。どんなことが分かりますか。エジプト人の中には10の災厄が臨んだことで自分たちが崇拝している偽の神々よりもエホバの方がはるかに強いと気付いた人がいたようです。その人たちは決断を迫られました。そして実際にエジプトを離れイスラエル人と一緒に行くことにした人もいます。改めて考えると興味深いですね。でももしかしたらこんなふうに思うかもしれません。「以前に説明されていたことはすんなり受け入れられたけど、今日の話からすると大いなるバビロンが滅ぼされた後に聖書レッスンを受けてた人とかいろんな人が私たちに加わるってこと?そんなの不公平だ!土壇場で救われるなんて。」でも私たちは憐れみ深く「地上の人全てを裁く方」に倣いたいですね。エホバがそういうふうに事を運ぶとしても驚くべきではありません。このことも考えてみて下さい。動画に出てきた図で見たようにこれは最終的な裁きが下される前に起きることです。ということは大患難が始まって早い段階でエホバに仕えることを決める人はやはりマゴグのゴグから攻撃されて大変な経験をすることになります。さらに頭に置いておきたいことがあります。1世紀西暦66年にエルサレムにいた人はそこを離れるかどうか決めなければいけませんでした。大きな決断を迫られたわけです。当時の人たちはすでに知っていることやそれまでに聞いていたことを基に決めました。こう考えてみると今私たちがしている伝道は極めて大事なことだと分かります。ローマ10章で使徒パウロが書いたことに注目してみましょう。ローマ10:13,14です。この聖句は今考えていることとどんな関係があるんでしょうか。大いなるバビロンが滅ぼされる前に13節に書かれている通りのことが起きます。「『エホバの名を呼ぶ人は皆救われる』のです。しかし信仰を持っていなければどうして呼び掛けられるでしょうか。また聞いたことがなければどうして信仰を持てるでしょうか。また伝道する人がいなければどうして聞けるでしょうか。」私たちのしている伝道がどれほど緊急で重要な活動かが分かりますね。そして今多くの人がエホバに仕えることを選んでいます。ではひとたび大患難が始まってからはどうですか。エホバの証人が聖書について伝えるのを聞いていた人の中にはその時点で自分もエホバに仕えるという判断をする人がいるでしょうか。やはりはっきりしたことは言えません。でももしそうなったらうれしいですね。

⇒すべてが想像なんですよ。「~ようです。」、とか、「~思われます。」とかね。

ではここでみんなが思ってはいても敬遠しがちだった話題に切り込みたいと思います。皆さんは誰かがあっ名前は言いませんけどね、こんなふうに言うのを聞いたことがありませんか。「エホバの証人じゃないうちの主人、大患難の前に死んでくれないかな。」はいはい、言いたいこと分かりますよ。うんうん、こう思ったんですね。「大患難が始まる前に死ねば復活できるってことでしょ。でも大患難が始まると⋯ねえ。」でも考えてみて下さい。誰かがいつまでも生きられるかどうかは死んだタイミングで決まるんでしょうか。それともその人が本当はどんな人かに懸かっているんでしょうか。憐れみ深く地上の人全てを裁く方は心の中にあるものを知っています。エホバがイエスに向かってこんなことを言っている姿がイメージできますか。「ほらあの人を見なさい。永遠に滅ぼさなければいけませんね。あれ?ああ、大患難の前に死んでしまった。復活させないと。」そんなわけないですよね。エホバは正しく憐れみ深く裁く方です。心を見ているエホバを欺くことなどできません。ここまでが1つ目の疑問でした。興味深かったですね。ひとたび大患難が始まったら救われるための扉は閉じられるんでしょうか。その時にならなければ分かりません。でも聖書からすると大患難が始まってからも真理を受け入れる人がいる可能性もあります。

⇒この部分は、X(旧:Twitter)でも、嫌悪感示してた方もおられました。私もそう思いますよ。いや、JWじゃないけど家族の必要を賄うために必死になって働いてくれる旦那さんがいるから、マイコンカルト信者道を歩めてるんだろうよ。それを、「大患難の前に死んでくれないかな。」、って言ってる人もいるって、茶化すもんじゃねぇだろ、と。

2つ目の質問です。王国の良い知らせを伝える活動はいつ終わりますか。いい質問です。そもそも良い知らせとは私たちと聞いて受け入れる人にとって良い知らせになります。詩編2編に書かれているようにそのほかの人にとっては良い知らせとはいえないわけです。ではマタイ24:14には何とありましたか。「王国の良い知らせ[が]伝えられます。それから終わりが来ます。」もう一度図をご覧下さい。ここで言う「終わり」とはどの時点のことですか。大患難の最終局面のことです。つまり大患難の間も王国の良い知らせは伝えられ続けるということです。それは私たちにとっては良い知らせですが、世の中の多くの人にとってはそうではありません。良い知らせの内容はこれからますますストレートになっていきます。聞く人たちにどうするかを問うものになります。王国を受け入れるかどうかです。このことから何が分かりますか。大患難の間に真理を受け入れる人がいるとしても驚くべきではないということです。3つ目です。大患難の最中に亡くなる人はみんな永遠に滅ぼされて生き返る見込みはないのでしょうか。まずはっきりさせておきたいこととして、ヤギとして裁かれる人は生き返りません。イエスが言った通りその人たちは「永遠の死を迎え」ることになっているからです。テサロニケ第二1章にはその人たちが「永遠の滅びという処罰を受け」ると書かれています。それはいつのことでしょうか。もう一度図をご覧下さい。イエスが聖なる者たちと共に来る時のことです。この図の中ではそれがいつのこととして描かれていますか。大患難の一番最後の部分です。この時つまり大患難の終わりごろにヤギとして裁かれる人たちは滅ぼされます。でもここで別の疑問が湧きます。当然ながらヤギとして裁かれ永遠に滅ぼされる人には王国を受け入れるか退けるかを判断するチャンスが十分にあったはずです。でも最終的な裁きが下される前はどうでしょうか。ある時点で大患難が始まります。大患難がいつまで続くか分かりませんがその間にも毎日たくさんの人が亡くなっていくはずです。今でも世界中で毎日約15万人もの人が老衰や戦争や病気などのために亡くなっているからです。そういう人たちはどうなるんでしょうか。エホバからの処罰で死んだわけではありません。覚えておきたいのは誰を生き返らせて誰を生き返らせないかを決めるのは憐れみ深く裁く方だということです。それで大患難の間に死んでいく人についてもはっきりしたことを言うべきではありません。エホバとイエスが正しいことをするのは確かです。では最後の質問です。大患難の間に生きている全ての人に王国を受け入れるか退けるかを判断する十分なチャンスが与えられるんでしょうか。どう思いますか。

⇒結局ね、この話も、「細かいことは、よぉわからんし、分からんでもええで。分かろうともすんなや。」って結論なんですよね。

あっ言わなくていいですよ。答えはシンプルです。私たちには分かりません。知る必要もありません。権限もありません。私たちが裁くわけではないからです。でもこんな声も聞こえてきそうです。「なんで分かんないの?大患難が始まったら終わりって聞いてたのにもう手遅れでしょ。」でもさっき言ったように毎日平均15万人の人が死んでいく一方、毎日35万人の赤ちゃんが生まれているんです。ですから仮に大患難が数日しか続かないとしても毎日たくさんの赤ちゃんが生まれていくわけです。それに良い知らせが十分に伝えられていない地域に住んでいる人はどうなるんでしょうか。エホバの証人の活動が制限されている国などです。こう思いますか。「全ての人に伝えることなんてできるんだろうか。」マタイ10:23からすると恐らくそうはならないと思われます。それでもう1つ疑問が湧きます。真理を受け入れるかどうかを判断する十分なチャンスがなかった大勢の人をエホバとイエスが機械的にヤギとして裁くなどということがあり得るんでしょうか。どう思いますか。真理を受け入れる十分なチャンスがないまま大患難の間に亡くなる人には正しくない人として生き返る見込みがあるんでしょうか。答えは?私たちには分かりません。はっきりしたことは言えません。言うべきでもありません。分からないからです。でも分かっていることがあるので安心できます。どんなことでしょうか。エホバとイエスが憐れみ深くいつも正しいことをするということです。エゼキエル33:11にある通りエホバは「悪い人の死を喜ばず」生き方を改めてほしいと思っています。エホバとイエスは一人一人を公平に正しく憐れみ深く裁きます。皆さんこう思ってますよね。「今日は大事なことが盛りだくさんだったな。ノートの取り過ぎで手が疲れちゃった。」お疲れさまです。でももうすぐ出る「ものみの塔」誌で詳しい情報が取り上げられます。どうぞお楽しみに。では私たちは今何をすべきですか。一人でも多くの人に良い知らせを伝えましょう。今していることがどんな良い結果につながるか分かりません。私たちは伝道を続けます。裁くことはエホバとイエスにお任せしましょう。お二人はいつも憐れみ深く正しいことをします。私たちはそのことを心の底から信じています。

⇒840万人の信者が見るであろう放送の肝が、「答えは?私たちには分かりません。はっきりしたことは言えません。言うべきでもありません。分からないからです。」って、もう壮大なコントね。そしてこの後、我々二世・三世にとって、またまた胸をえぐるようなカルトアニメが放送されます。

「今の話いかがでしたか?」って聞くつもりでしたけど、皆さんの様子からすると尋ねるまでもありませんね。本当にいい話でした。3人の兄弟たちありがとうございました。そして天のお父さんエホバにも感謝しています。考えていることを私たちに教えてくれるからです。私たちはエホバとイエスがいつも正しいことをすると信じています。次は何でしょうか。新しい動画を見ることができます。タイトルは「エホバの友になろうきみはエホバのたからもの」どうぞお楽しみ下さい。
みなさんおはようございます。校長のロドリゲスです。お知らせがあります。もうすぐ年に一度のパーティーがあります。ワクワクしちゃうね。ゲームもおかしもあるよ。みんなで楽しもう!イェーイ!やったー!パーティーだ!パーティー!パーティー!はいみなさん静かに。じゃあまたあした。楽しみだね、ソフィア。あっそっか、来れないんだっけ。みなさん下校の時間です。えっ?何?あっそっか、ありがとう。最後に1つお知らせがあります。今月の「がんばったで賞」に選ばれたのは…カレブ!やったじゃん!カレブだ!すごいね!うんそうだね。カレブががんばれてるのはエホバのおかげ。エホバのこともっと知りたい。じゃ始めよっか。あっ本持ってくる。外で待ってて。うん!ゾーイえっと何?どこ行くの?あーこれからちょっと、あのー。ソフィアでしょ。何でいつもいっしょなの?あいつってさー、みんなとちがう?ういてんのよ。パーティーには来ないし、マジつまんないし。ゾーイもみんなとちがってる。でもいい意味でね。あんなつまんない子じゃなくてうちらと遊ぼうよ。アンジェラ、ちょっと来てくれない?じゃあねゾーイ。みんなとちがうのってなんかイヤじゃない?どういうこと?クラスの子たちが言ってたんだけど、パーティーに行かないなんてつまんないし、すごく変わってるって。えー?だれがそんなこと言ってるの?わたしたちだって楽しんでるよ。ちょっと大変なこともあるけど。みんなとちがっているのはいいことなんだよ。イエスみたいに。イエスみたいに?うんそうだよ。イエスのこと家族でよく話してるんだ。聖書でイエスは弟子たちが「世の人々のようではない」と言っているね。カレブそれって一体どういう意味だと思う?うーん。うわああ。10秒前、9876543210、はっしゃ!おもしろい発想だね。でもうちゅうに行かなくてもだいじょうぶだよ。ここでイエスが言いたかったのは弟子たちが世から出て行くことじゃあなくて…世の人たちみたいにならないこと!そうよ、ソフィア。イエスはこんなふうにも言っている「私が世の人々のようではない…ように彼らも世の人々のようではありません。」イエスはどういう意味で「世の人々のよう」ではなかったんだろう?そうね。イエスは周りの人とはちがっていたわ。イエスの友達もそうだった。イエスはみんなに手本をしめしたの。行動でも言葉でも、考え方でもね。そうなの?どんなふうに?自分とちがっているといじわるする人もいるの。イエスはみんなを助けたいと思ってた。でもそのことで、すっごくおこった人たちもいたの。自分とちがっているのが気に入らなかったのね。でもイエスはそんなこと気にしなかった。それはだれみたいになりたかったからだと思う?エホバでしょ?その通り。エホバにしたがう人は、エホバにとって大切なたからものなんだ。だからエホバを愛してしたがい、イエスみたいに世の人々とちがっているなら…エホバのたからものになれるんだよ!わたしそんなふうにはできないと思う。どうして?はぁーいみなさん静かに。うーん分かんない。もう行かなきゃ。エホバを愛してしたがえば、エホバのたからものになれるんだよ!あいつひふ病だ!あっち行け!目ざわりなんだよ!あの人何してるの?ここに来ちゃだめだろ。イエスあなたが願ってくださればわたしの病気は治ります。あなたを治したい。良くなって下さい。ほら治っていくわ!今の見たか?全くりかいできない。イエスって周りのみんなとは全然ちがってた。おばあちゃんいなくなってさみしいね。これあげる。読むと元気が出るよ。ありがとう。それを見てすっごくおこる人たちもいた。あっ!ごめーん、ぶつかっちゃった。だいじょうぶ?ひどいよね。わたしもいじわるされたよ。自分とちがっているといじわるする人たちもいる。あんなつまんない子じゃなくてうちらと遊ぼうよ。でもイエスはエホバみたいになりたいと思っていた。だからエホバのたからものだったんだ。ゾーイソフィアとのレッスンどうだった?ママこれ見てほしいの。なあに?さあみんな、楽しいパーティーが始まるよ!ねえゾーイ、いっしょに来るよね?こうやればいいんだよ。ソフィア!パーティー行かなかったの?うん。イエスみたいになりたかったの。よし、じゃあいっしょに遊ぼう!あーあやっちゃった!
とても温かい気持ちになりました。やっぱり動画はいいですね。


⇒どこが温かい気持ちになるんだよ?「やっぱり動画はいいですね。」って水野晴郎先生じゃないだからさ。

 

で、ここで皆さんにお詫びがございます。できれば一つの放送は、1記事にまとめたかったんですが、いかんせん2時間弱の放送を書き起こしたら、それだけで3万文字超えてまして、そのままではアップができないものですから、ここで一旦記事を区切り、続きは、この後の記事でお読みくださいませ。お手数かけますがすいません。苦情は、英語であればウォーウィックに、日本語であれば海老名までお願いします。