突然の手紙をお許しください。
私はxxxxxと申します。年齢は62歳。国籍は日本です。私の父は1903年生まれの朝鮮人です。
1964年群馬県太田市で亡くなりました。私の母親は日本人です。
全羅南道出身の父親の家族、彼の生きてきた歴史を知りたいと、この数十年もがいております。
 
私は父の事、何も知らないのです。そして、「娘」として彼の外国人登録など法的な書類を閲覧することができません。
私の母(日本人)と私の父親金士権は内縁関係だったからです。私は、「非嫡出子」として日本人の母の戸籍に記載されました。
 
1964年(昭和39年)まで、太田市高林に異母兄二人、父と母、私、5人で住んでました。家は富士重工(旧中島飛行機工場)の
社宅だったものを買ったと聞いてます。ということは、父は戦争中中島飛行機工場で働いていたのではないかと、考えてます。
富士重工に昔の従業員名簿(または徴用工名簿)みたいなものは、残ってるのでしょうか?
 
前述の異母兄二人も現在行方不明です。日本国内にいるのか、どうかもわかりません。妹ですが、法的に証明できませんので、
出入国記録の閲覧が許されません。
 
民団群馬県支部に古い資料があり、私の父、金士権(日本名は秋元政男)の情報などが載っているかどうか、知りたくて、
当手紙を書いています。と、言っても父が生きている時、民団と関わっていたのかはわかりません。私の母に聞いても、
何も手がかりが掴めません。私の母は10年近く一緒に暮らしていたのに、父についてこと何も知らないのです。
私が生まれて、市役所に行って、そこで初めて、父が朝鮮籍だと知らされたとのことです。しかし、私も母親も父の通名秋元を使ってました。
私は秋元政子で、幼稚園、小学校へ入学しました。父の死後(私8歳)、母と二人で太田市高林の家を出ました。
それ以後私の名前は、母の苗字、戸籍名、須永をなのるようになりました。
 
1990年太田市役所で「娘」だと係りの人に泣いてすがり、やっと父親の死亡通知書だけだったらと閲覧させてもらって、
韓国の本籍地を知ることができました。そして当地より戸籍のコピーを送ってもらいました。
 
1903年全羅南道で出生、1964年太田市内太田病院で死亡しました。父と父の家族(前妻日本人、息子3人、そのうち1人幼少時死亡)
がいつから太田市に住んでいたかわかりません。父には息子が二人いました。私の異母兄です。若い方の兄、英男は、
中学校は太田市立南中学校でした。その後県立太田高校へ進学しました。高林の家(住所:太田市大字高林1784番地、その後、番地が1813-1に変更されてます)の登記簿には「昭和32年払い下げ」と表記されてます。でも、それ以前から同地に住んでおりました。
私は、昭和31年生まれで、その家で生まれてます。
 
1903年生まれですから、同年齢の人は生存していないでしょう。でも、中島飛行機工場で当時働いていた方が今でもご存命なら、
会ってお話を聞きたいです。たとえ、私の父のことを知らなくても、です。私が生まれた頃の父の仕事は行商。
洋品を仕入れて日本国内を行商していたと、母は言います。
 
まとまりのない内容の手紙で申し訳ありません。
なんでも、小さなことでも良いです。私の父についての情報を求めてます。
父の韓国の戸籍名は、金士権、日本名:秋元政男、兄、秋元紀一郎、兄、秋元英男について知る手段を教えていただけないでしょうか?
(民団群馬県支部宛に書いた手紙。まだ出していない。)