私が動けなくなってからの出来事 2021 | まのブログ

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理学療法士で、フルパワーで仕事、家事、育児をしていましたが、心身のバランスを崩して休職→退職。2年半の無職期間を経て、パートタイムで事務員として社会復帰しました。
あれこれぶつぶつと綴っています。


最近、あまり写真を撮らせてくれなくなった次男です。顔を隠しながら「はやくあっちにいって!」と言っています。
ちなみにここは次男の『オタクゾーン』です。

今日は関東の方で積雪があるとか。
私が子供の頃は、東京は雪が降らないイメージでしたが、変わりましたね。



2021年4月、私は突然動けなくなりました。
仕事はしばらく休む、から休職になりました。仕事どころではありません。座ってすらいられないのですから。吐き気でご飯も食べられません。

家事なんてもっての他。代わりに夫がしていましたが、夫は要領が悪く、すぐにキャパオーバーになるので見ていられませんでした。子供が言うことを聞かないと叱る声が聞こえ、明らかに疲れきった様子を見せていました。
私は内心「もっとスマートにしてくれないかな。家事ができる夫の方が絶対いい」と、布団の中で思っていました。
思えば、悪阻の時もそうだった!

食事が摂れないので、処方されたエンシュアをストローで飲んでいました。母が時々来てごはんを作ってくれていましたが、作ってくれた肉うどんを食べて、お腹を下しました。体重は2週間で3キロ減りました。

それでも、パロキセチン内服開始から10日くらい経つと、少しずつ動けるようになりました。
洗濯などの家事は、昼間少しずつするようになりました。掃除機は辛くてかけられないので、ルンバ様頼みです。
食器を食洗機に入れてぐったりゴロン、洗濯物を畳んでぐったりゴロン、本当に効率が悪かったけど、一歩一歩でした。
常に息苦しくて、身体がだるくてたまらなかったです。

ミヤネ屋が始まる14時台に体調が悪くなることが多く、スマホもテレビも見れないし、息が苦しくて部屋のすみで体育座りをしてしのいでいました。自分は何て役立たずなんだと、泣けてきました。時間が経つのが遅かったです。
テレビの音量が大きいのもダメ。
でも、家に1人でいると不安感で余計息が苦しくなり、テレビは小さい音でずっとつけていました。
主治医に話すと、「そういう時に頓服(アルプラゾラム)、を飲めばいいんですよ」と言われて飲むようになってからは、少し楽になりました。
でも、自分の中で1日1錠と決めていました。

一体なんだろう。
身体の中で何が起こっている?
つい2週間前まで普通に仕事していたのに、何で急にこんなことになるんだ。
ショッキングでした…
同時に、頭の中が壊れるってこういうことなんだな、すごいな。と、ある意味感心していました。

ある日、悪阻で食べれない時にコンビニのおにぎりは食べられたことを思い出し、夫に頼んで買ってきてもらいました。
何と!2個も食べられました。しかも、おいしかった。人間の世界に戻れた気がしました。
夫にも「2個食べれた!おいしかった!」と報告すると、喜んでくれました。
それが4月の終わりのことです。

連休明けから、少しずつ外に出られるようになりました。私は子供会費の集金係をしていたので、近所に集金袋を配布しないといけませんでした。近所の人は、私の車が急に動かなくなったことを不思議に思っていたでしょうが、聞かれることはありませんでした。

集金袋を持って歩いていて、何てことない距離なのに、頭はふらふら、息はぜーぜー。家に入って倒れこみました。明らかな廃用でした。

車の運転も1ヶ月ぶりにしましたが、感覚がおかしい。近距離の買い物から始めました。
信号につかまるとドキドキするので、飴をなめたり歌をうたったり(笑)
距離をどんどん伸ばして、少しずつ慣らしていきました。通院は、秋くらいまでは夫に付き添ってもらっていました。

辛かったですが、もう良くなるしかないんだからと、つとめて前向きな気持ちでした。
理学療法士なので、リハビリテーションの段階付けは得意です!

リハビリがてら、元々好きだったガーデニングを再開しました。夏の台風の時は過呼吸になりそうな中、鉢やプランターを移動しました。
秋くらいになってやっと、人中に出られるようになりました。
それからは、保育園の送迎をしたり参観日に行ったり、試合の応援に行ったりと、頓服に頼りながら徐々に元通りの生活に戻りました。
仕事以外は…

主治医は、就労許可は絶対にくれませんでした。私がこうなったのには、仕事が大きく影響していると考えていたのでしょう。
最近になってやっと、条件付きで許可が出ましたが、1年9ヶ月かかっていますから。

仕事から離れて、早いものでもうすぐ2年。
今、どういう作戦で求職活動をしようか、非常に悩んでいます。