『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社
五月十六日 ネポムクの聖ヨハネ
古今東西を通じ、いまだかつて聴罪司祭の口から告白の秘密がもれた例がないが、ネボムクの聖ヨハネは一命をとおして告白の秘密を守った人である。
この聖人は一三二〇年ごろ南ボヘミア(現在のチェコ・スロヴァキア)のネポムク村に生まれた。両親はヨハネが幼時より勉牽を好み徳を愛する傾ぎがあるのをみてとり、シトー会修道院のかたわらに住居を移した。ヨハネはミサ答えをしたり、修道士と読書を共にしているあいだに感化されて聖職への召命を感じた。そこで司祭を志し、首都プラーグに遊学し、神紫特に教会法を研究した。学成って司祭に叙階後もプラーグの聖ガルス教会の主任司祭として活躍し、しだいにその聖徳と博学雄弁のうわさは近隣に伝わった。
そのころ、ボヘミアを治めていたのはウェソセンスラナ一世だった。
この国王は信者でありながら残忍で猜疑心が強く国政を怠っていた。王はたまたまヨハネの名声を耳にし、好奇心から使いを送ってヨハネの説教を聞きたいと要求した。人々の救霊を熱望していたヨハネは王のお召しに応じて宮廷に出入りし、王や侍従の面前で、とうとラと救いの道を述ぺた。王もこれに感動し、一時は改心のきざしを見せたほどだった。そのあいだにヨハネは宮廷の聴罪司祭に任命され、続いて王の改心のために尽力した。だが王の信心は表面的で、ことあるごとに民に対し横暴な態度をとった。柔和敬けんな皇后ヨハソナは常に王のおがままを嘆き、賢明にこんをいさめたが、かえって王の怒りを招ぎ、さらに側斤の者よりざんげんされ、不実の罪を着せられた。王ばこのざんげんを信じ、ヨハネを面前に召して、
「わたしは皇后の行為を疑っているが、どんなことかばっきりしないので困っている。ところで神父は皇后の告白を聞くから、その思い行ないもよく知っておられるでしょう。それをはっきり話していただきたい。」
ヨハネはこれを聞いて大いに驚き、「宮廷の人びとは皇后が品行方正で、心の潔白なかたであられることをよく知っています。陛下の疑いはだれかのざんげんより起こったことと思いますから、それにはおかまいなく、以前のように皇后を愛されますように」と答えた。王は怒りをふくめ、「わたしは皇后が神父にどんな告白したか聞きたいのだ」と迫った。ヨハネは威儀を正して答えた。
「告白の秘密をもらすことはどうしてもできません。陛下の仰せに従えないのを残念に思います。」
これには返すことばもなく、王はあえてそれ以上聞こうとはしなかった。
数日後、国王は食物について不服のあまり、料埋係りを斬ろうとした。側近の者はただ驚き騒ぐだけで、だれひとり王をいさめ止めようともしなかった。そこヘヨハネが来あわせて熱心に王をいさめた。怒り狂った王はヨハネを獄に投じてしまった。王は怒りの静まったころ、ヨハネを面前に引き出し、「どうか皇后がどんなことを告自したかを話してくれないか。その報いとして望むものはみんな与えるから・・・」と誘惑した。
「陛下、わたしに他のことを命ぜられるならば喜んで従いますが、しかしこれだけはできません。司祭は告白の秘密を一言たりとも他にもらすことができません。」ヨハネの心はゆるがなかった。
王は烈火のごとく怒り、数人の兵士な呼んでヨハネを後ろ手に縛りあげ、責苦拷問にかけて王の命令に従わせようとした。ヨハネはただイエズス、マリアのみ名を呼ぶだけで他に何一つ言わなかった。そこで強くヨハネのからだをむち打たせたうえに、残酷にも灼熱した鉄の棒でそのからだを焼かせた。ヨハネはこの残虐なしうちにもよくたえ忍び、一言も秘密々もらさなかった。国王は烈火のごとく怒り、夜中兵士たちに命じて、ヨハネをモルダウ川のカルル橋上に運ばせ、そこから手足を縛ったまま川の中に投げ込ませた。
その夜、聖人の遺骸の沈んだあたりには、星のような火の玉が無数に水面を漂っていた。翌朝、人びとは聖人の死体を口つけて、プラーグ市の大聖向堂喝へ運んだ。司祭も信者も市民も聖人の死を深く悲しみ手厚く葬った。
それから三百年以上たった一七一九年、ヨハネの列聖調査のためにプラーグ大聖堂内の墓が開かれたとき、舌だけはかわいて腐敗せずに残っていた。人びとはこれこそヨハネが告白の秘密を守ったことに対する神の報いのしるしだと信じ、ヨハネの舌を顕示台に納め聖堂の宝物として保存した。
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