『聖人たちの生涯』池田敏雄神父著、中央出版社

五月十日 聖アントニノ大司教

 人は思わぬことがもとで生涯の道を選ぶことがある。聖アントニノは司祭の説教に感動して修道院にはいり、いろんな試練の中によく身を修め、徳をみがいて社会のため大いに活躍した。

 アントニノは、一二八九年、公証人ピエロッチの子として、イタリアはフィレンツエ市に生まれた。人からアントニノ(小さいアントニオ)と呼ばれたとおり、背は低くからだこそ小さかったが、気骨が大きく、学問や善徳にかけては早くから同僚のあいだに頭角を現わしていた。

 十五歳のとぎ、ドミニコ会の博学なドミニコ師の説教に感激して入会を申し込んだ。しかしドミニコ師は、アントニノの年が若すぎるし、おまけにそのなよなよした性格では、とても修道院の厳格な生涯にたえられないものと判断し、「グラチアノ教令集(教会法)を暗記してから……」とむずかしい条件をつけて数年待つようにすすめた。

 普通の人なら、その分厚い難解な教令集にはお手あげのところだが、そこはねばりつよいアントニノのこと、夜を日についで一心不乱に勉強した。一年もたたないうちにアントニノはドミニコ師のもとに来て、「教会法の試験をしてください」と申し出た。試験をしてみると一句もらさず暗記しており、しかもあらゆる難問にすらすらと答えるので、アントニノの記憶力と理解力に驚いてさっそく入会を許可した。

 修道院ではけんそんに従順に規則を守り、自分の完徳だけではなく、常に他の人の完徳を手伝い、一同の模範となった。まもなくローマのミネルヴァ大修道院の院長をふりだしに、八つの修道院を管理すること三十年、ことばよりも行動をもって慈父のごとく部下の修道者を導いた。

 いっぼうこの多忙な仕事のほかに、しだいにその学識が世に認められ、しばしば教皇庁や役所から複雑な教会法の問題について相談を受けた。そしてのち、一四三九年のフィレンツェ公会議には神学顧問としてこれに列席した。

 一四四四年、フィレンツェ大司教がなくなると、その後継者にエウゼニオ四世はアントニノを選んだ。そのときアントニノはドミニコ会総長として各地の修道院を視察中だったが、大司教にすいせんされそうだと聞いて、自分はそれにふさわしくないと言ってサルジニア島にかくれようとした。しかし教皇のたび単なる説得に、アントニノはいさぎよく大司教の重任を背負った。

 アントニノ大司教は「使徒の後継者の全財産といえば、それは善徳でなければならない」と口ぐせのように言って、その衣食住は使徒たちにならい清貧そのものだった。ごくわずかな生活費や教会維持費のほかは、お金でも食物でも貧者にくばり、それがなくなると乏しい家具や衣服さえも与えた。また司教館に飼っていた労働用のろばを何回か売って貧者を助けたが、そのたびにある金持がそのろばを買いもどして大司教に贈ったという。

 彼は人びとを真に愛するあまり、ばくち、汚職、怠惰などの罪をきびしくとがめたので、敵をつくらないわけでもなかった。チァディという男は、アントニノ大司教に罪をとがめられたことを根にもち、すきをねらつて大司教に短刀をなげつけた。幸いにきっさきがはずれて、大司教はあやうく難を避けたが、恐れる色もなく、ほおえみながら「わたくしは罪深い者ですから殉教の栄冠は得られないのでしょう」と言ったそうである。そして犯人の罪を許しただけでなく、その改心のために祈った。犯人はその後改心してまじめな生活を送った。

 大司教は、教区の司牧、貧者や病人の世話のほかに毎日の祈り、説教、著述など多方面に活躍したが、フィレンツェ市は一四四八年にペスト、一四五三年から三年に問はたび重なる地震と暴風に見舞われ、多くの罹災者を出した。このとぎ大司教は、災害対策本部のおんどを取り、イタリア全国の有志に呼びかけて救援物資や援助資金を募り、霊的にも物質的にも罹災者を助けた。その愛徳に対してフィレソツエ共和国の大統領コスモ・メジチは「国家存亡のとぎに、この共和国を救ったのは、おもに聖なる大司教の功績と祈りによるものである」と言つて称賛したといわれる。

 こうしてアントニノは、大司教の重任を果たすこと十三年、激務のかたわら世界史、神学書など幾多の学術書を著わし、一四五九年、七十歳で生涯の幕を閉じた。

 

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