[上]より続く。
 
●● 皆がもっと簡単に踏み絵を踏んでいたら、拷問はなかったのだろうか。あくまでも可能性としてだけどね。
 
■■ しかし日本のカトリック信徒は、そうではなかった。歴史的に類を見ないほどの殉教者が出た。ヨーロッパにもその話が伝わり、人びとは衝撃を受けたそうだ。
 イエスも「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)と言っているし、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、体も魂も地獄で滅ぼすことができる方を恐れなさい」(マタイ10:28)とも言っている。そういう生き方を選んだということになるよ。自分たちの信仰の先輩に全体主義に屈しない人々がいたんだね。
 
 この作品の論評の中に、「沈黙」を評価するあまり、「教会は父権的で、殉教を強要している」なんていうものもあったけど、僕に言わせればいいがかりだね。何もわかっていない。

 殉教は、聖書に記された信仰表明の一つだよね。
「人びとはあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や監督の前に引っ張っていく。それはあなたがたにとって証しをする機会となる」(ルカ21:11-13)。「中には殺される者もいる」(ルカ21:16)。ヨハネも仲間のペトロの殉教について「神の栄光を表す」(ヨハネ21:19)と書いているよ。
 
 さっきも言ったけど、殉教は神のわざであって、聖霊の助けがなければ、恵みによらなければ、殉教することはできない。ここを見失うとおかしな議論になってしまう。
 もちろん、もし本人が殉教を望まないと思うのなら、自由に踏めばいいと思うよ。神さまだってイヤイヤ殉教されたくはないはずだよね。
 
 しかし、逆に、殉教の意志のある人の信仰上の選択にまで、司祭が「助けたい」などと入り込んでくる必要はないと思う。そういう発想は信徒の信仰を見くびっているから出てくるんじゃないかな。あくまでも神と信徒個人の問題だよ。
 当時の日本人信徒の殉教録をみると、自由な意志と信仰をもって殉教しているよね。キリシタンが投獄された牢屋の中で、見張り役がキリスト教を知って、信仰を得て殉教の道を選んだって話もあるんだから。
 
●● でも実際に起こったら、苦しむ人たちの叫び声を前に、何もしないままでいいのかってこともあるだろう。見殺しにできなかったということなんじゃないか。
 
■■ 見殺しも何も、司祭にそんな権限はないよ。それに、あのような人類史においても珍しい残酷な場面に、誰も痛まず苦しまずに終わるということ自体ありえないだろう。大迫害なんだから、みな大いに苦しんだだろうね。大迫害の中で、少しも痛まないキリスト教なんて絶対にあり得ない。
 
 小説や映画は、制作側の見方に即した場面設定で時代を描いているわけで、ロドリゴ神父の棄教によって数人の命が助かった、これも一つの救済だ、という筋書きがあるように感じた。
 
 しかし見方を変えれば、ロドリゴ神父の棄教が、信徒たちに悪い影響を与え、多くの人が永遠の命を失ってしまった、という設定も可能だよね。可能性として、「せっかく殉教できたのに」と嘆いた人もいたかもしれない。奉行の目的は、キリスト教信仰を壊滅させることなのだから、大成功だったわけだ。
 
 どちらにしても、ロドリゴ神父が棄教して自分の拷問を免れ、数人を見殺しにしたという呵責を感じずにすみ、その後も生き延びた、ということは、作品で描かれた限りでは確かだよね。もし彼が、拷問で苦しむ信徒を助けるために棄教したふりをし、その数年後、あらためて信仰を告白して殉教した、というのなら説得力があるよ。「やはり救うためだったんだ」と。
 
 しかし実際は、妻をあてがわれ、そこそこの家に住み、三食食べて、残りの人生を生き抜いたわけだけど、400年たった今、その当時の人は皆死んでいるわけだよね。生き延びることにどれだけ意味があったのか。何が最善だったのか。考えざるをえない。
 
●● そこまで言っちゃ、ロドリゴ神父もかわいそうだよ。史実としては彼は信仰を捨てなかったという説もあるようだよ。
 
■■ 僕は、彼が救われているとしてもそれはよかったと思うよ。神と彼との関係の問題だから。彼に滅んでもらわないと困るわけじゃないしね。

 ただ、信仰には、さまざまな側面があって、信仰を「公に」「口で」告白することを特に聖書は強調している(ローマ10:9)。その意味で「公に」「口で」(この場合は踏み絵を踏んで)信仰を否定した事実は、個人的には小さいことだとは思えない。
 
 棄教した人を責める気は全くないけど、「ロドリゴと24棄教者」なんて話には、やはり何の魅力もないよ。非常時の生き残り策として「踏むも信仰、踏まぬも信仰」という選択がありえたとしても、それが平時の選択肢の一つにでもなったらおかしいよね。聖書のどこをめくっても、そんな理屈は出てこないよ。
 自分がそうなれるかは別としても、殉教者のほうがはるかに光り輝いて見える。何であれ、命を捨てればいいってことじゃないけど、裏切者には、個人的にどうしても感情移入ができない。

 なかには「自分の弱さで棄教してしまったが、その後、自分の行為を悔いて、人知れず涙を流しながら手を合わせて祈る棄教者を私は責めることはできない」なんて言う人もいるけど、「悔い改めた棄教者」は、僕だって許されると思うし、彼らが許されないという教えはあるんだろうか。責める、責めないの話でもないと思う。どこか考えが屈折してるよね。
 第一、棄教したキリシタンを責めた人って、実際にいたんだろうか。生き残った人は、言い方は悪いかもしれないけど、皆、踏み絵を踏んだ棄教者なんだから。
 
 何よりも、棄教したことに対する是非は、最終的に神が決めることだということを第一に考えるべきなんじゃないかな。例えば、「神様はお優しいから裁かない。棄教したっていいんだ」と、一歩踏み込んで断定するのは、優しい心から出る想像ではあっても、神だけが持つ権限に人間の分際で入り込んでいる気がする。言ってしまえば、最後の審判の先取りをしてしまっていて、神を偶像化する危険性がある。
 
 もう少し、神の前で、それこそ沈黙しつつ、信頼してゆだねるというわきまえが必要なのではないかな。神の判断が正しいと信じるのであれば、そんなに結論を急ぐ必要はないじゃない。
 
●● うーん…。つまり、「棄教しても何の問題もなく救われる。あのような生き方も当然ありえた」という割り切った見方には何か異質なものがあるということか。選択肢としてありえるような理解はしないほうがいいということだね。
 
■■ 人それぞれだけど、僕はそう思う。棄教者伝とか棄教者の証言のようなものばかり読んでいたら、きっとめげるんじゃないか。なぜマイナスの要素を感じるのかというと、真理に対する裏切り行為が、人間の内面の根源的な崩壊につながると感じるからなんだ。単に「人間の弱さ」ということでは覆いきれない何かがあるように思う。ユダをかばって評価する聖書学者や神学者もいるけど、ユダのようになりたいと大抵の人は思わないじゃない。その直観が大事なんだ。
 
 こう言うと、「教会は弱い人を見捨てるのか」と批判されるかもしれないけど、それとは議論の次元が違う。たとえば、裏切者が出たとして、教会としてその人をゆるして共同体に再度迎えるのはまったく構わないと思うし、悔い改めるなら際限なくゆるされていいと思う。しかし、その行動や理屈を正当化する必要はない。「罪を憎んで人を憎まず」というのと同じだよ。もちろん、キチジローのような意志の弱い人もいるわけなので、殉教を強要するのは避けるべきだと思うけど、しかし同時に、そういう逆境の中において特別な神の計らい、神の恵みが働くことも、知っておかなければならないと思うんだ。
 
●● キチジローねえ。弱いのか強いのか…。でも本当にあんな感じで人生、生きられるのかな。
 
■■ 彼の弱さはわかるし、小説の中で組み立てられた人物像はなかなか手ごわいもので、彼の立場に同情する人も少なくないと思う。ただそれは、信仰の世界特有の問題ではないよね。権力者から暴力で脅されて仲間を裏切る人はこの世界にも一定数いるだろう。「お前の会社の機密事項を漏らさなければ、家族に危害を加える」と言われて、同僚や仲間を売ってしまうような…。それを「彼の弱さ」ということで世間は了解するんだろうか。
 
●● 嫌いな人物像なんだね。
 
■■ というよりも、なりたくない人物像だね。なりたい人物像、理想像は、上にあるんだ。洗礼名はそういう意味で付けたんじゃないの? 当然、「キチジロー」や「イスカリオテのユダ」なんて洗礼名は、ありえないよね。まあ教会から拒否されると思うけど。みな天を向いて、自分の理想とする聖人名をもらうわけだ。それがその人の霊性や信仰観を示すことも多いよね。
 
●● 今後、こんな残忍な迫害の時代は来てほしくないけど、過去を顧みることができてありがたい映画だったね。
 
■■ 「殉教者」という言葉には「証しをする人」という意味がある。信仰の証なんだね。だから、先にも言ったけど、キリシタンが殉教していくのを見て、自分も回心して殉教者の列に連なった、なんて驚くべき話もあるんだ。その中には、牢獄の番人や、取調役の立場だった人さえいる。それだけ聖霊が働いていたということだよ。
 乙女峠では5歳の子供でさえ殉教者となったのは、それが信仰の証しであると同時に、神のわざだったからだ。
 
 それに殉教は、当時に限られたことではないよ。教皇フランシスコもツイッターで言っていたよね。
 

 今日においてでさえ、非常にたくさんのキリスト教徒がキリストへの愛のために殺されたり迫害を受けたりしています。彼らの殉教はもはや報道に値するものではないので、彼らは沈黙のうちに命を与えています。しかし今日では、初期の世紀よりも多くのキリスト教殉教者がいるのです。2019年5月27日

 

 ある試算によると、1時間に1人の計算になるそうだ。しかし、それらはあまり報道されない。キリスト教的な精神に対して世界がどれほど鈍感、無関心になっているかが分かるだろう。BBCのwebニュースでも「キリスト教徒への迫害は、ほとんど大量殺戮のレベル」(BBC, 2019. 3.3)という報道があったよ。

 
●● それじゃ、日本でも起こり得るのだろうか。
 
■■ それは分からない。ただ、口幅ったいことを言うようだけど、キリストを愛することや黙想することを大事にしなくてはと思う。
 なにより、日本は、世界史でも類のないほどの殉教者の血でうるおされた稀有な国だということをあらためて誇りに思った。「聖なる日本の殉教者、我らのために祈りたまえ」と、心して祈りたい。
 
 「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼(サタン)に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示録12:11)