イザヤ書の「苦難の僕」とは誰? 

●● 教会では、聖書を各教派の伝統にしたがう方法であれば、どう解釈するのか教えてくれます。しかし、旧約聖書、新約聖書の素直な理解も、聖書学的に正しい理解も、教えてくれません。
 私はカトリックではないのですが、どこもそんなレベルです。歴史的批判的研究方法を無視したまま、講話や説教がなされるのです。これでいいのでしょうか。礼拝に出ても意味がないように思います。
 
歴史的批判的研究方法:18世紀以降、大きな潮流となった聖書研究の手法。教義を離れ、理性と自由を重んじつつ、文献学として聖書各書の歴史的理解を求めようとするもの。のちに「様式史研究」「伝承史研究」「編集史研究」と展開した。カトリック教会においては、無神論的世界観を前提としない限り、方法論としては認められている(「啓示憲章」12、『カテキズム』110, 126など)。
 
 
■■ 聖書研究には様々なアプローチがあり、歴史的批判的研究方法もその一つですが、絶対的な研究方法というものはありません。無教会の関根正雄先生は旧約と新約を「全聖書思想史」という視点で捉えていますし、他にもカノニカル(正典的)アプローチとして聖書を取り扱う立場もあります(P・シュトゥールマッハーや、B・Cチャイルズなど)。そのような教会を生かす聖書学も存在しています。
 

●● それは知りませんでした。ただ教会では、旧約聖書を扱う際、新約を想定せずに純粋に旧約だけの意味を語ってくれません。また、伝承史の成果、諸文書全体としての解釈、教理を基にした解釈など、そういった多層的な解釈をそれぞれ区分けして語ってくれることもないのです。そういう状況を述べたかったわけです。
 

■■ なるほど、確かに教会にはそういう現実があり、それに不満を持たれる気持ちもわからないでもないです。
 しかし、教会はあくまでも礼拝の場ですし、参加者したすべての人に聖書学的なアプローチが必要とされているとは思えません。また、すべての説教者に学問的レベルを保って聖書を教えるように求めるのも現実的ではないでしょう。
 何よりも、批判的な聖書学を心理的に(あるいは他の理由で)受け入れない信徒も多くいると思います。そういう様々な人々が集まる「教会」という場での聖書の読み方が、伝統的な読み方であっても当然なことではないかと思います。教会は、聖書学の勉強の場ではないわけですから。
 

●● しかしあまりにも行き過ぎだと思えることもあります。
 たとえば、教会では「イザヤ書はイエスを預言した」と教えます。つまり「苦難の僕」はイエスのことだと言うわけです。しかし、聖書の歴史的批判的研究では、それは否定されます。
 
 つまり、学問的な結論は、「第二イザヤは苦難の僕をイエスのことだと預言していない」ということなのに、教会では、「第二イザヤ書は、苦難の僕をイエスだと預言している」と教えられているのです。これは、聖書には多様な読み方があるということで逃れられない問題だと思います。教会では間違ったことが教えられているのではないでしょうか。
 
第二イザヤ:イザヤ書40~55章のこと。またはそれを書いた捕囚期の預言者。
 
 
■■ 私としては、学問的作業と教会の信仰は連続させられると思います。つまり、旧約と新約を一つの流れで見る立場から、連続させることできると考えます。これは、聖書観の問題であり、どのような聖書理解を持つかという「個人の立場」の問題につながります。
 
 第二イザヤが「歴史的に」誰を預言していたかについては、注解書を見ると解説が載っていますが(第二イザヤ自身であるとか、イエスラエルのことだとか)、聖書神学は別として、文献学の範囲で行われる聖書学では、「第二イザヤがナザレのイエスを幻視して預言した」と、そもそも言えるはずはないわけです(神様がイザヤにそのような霊感を与えたと文献学の土俵では言えない)。
 
聖書神学:聖書を神学的に取り扱う立場の聖書学。

 そういう特徴のある聖書学は、教義的な関心から研究されているのではありませんから、そのことを知っていれば、私のような信者でも「第二イザヤがイエスを苦難の僕としてビジョンで見たと言ってくれないと信仰上困る」ということにはなりません。

 歴史的には、別人を念頭において書かれた可能性があるのかも知れない。しかし、「苦難の僕」の姿を完全な形で成就したのがイエスだ、という理解をもって連続性を見ることもできます。これは文献学的な作業ではない、イエスをどう理解するかという「個人の立場」から来ています。そしてそれは旧約聖書と新約聖書を一つの書として理解することの結果でもあります。
 
 成就と書きましたが、メシア思想を例にすると、旧約聖書の中で思想の発展があります。それは結局はメシアが誰であるか、それを特定することによって決着が付くものです。いわゆる「成就」です。キリスト教では、それをイエスだと理解し、その視点から福音書が書かれたわけですが、思想が継承されているという意味で連続していると考えられます。

 「自覚的に予表したという意味では決してなく、ただ旧新約聖書を貫く啓示の普遍的共通性に基づいて、第四の僕の詩(52:13-53:12)が新約聖書のイエス・キリストの生と死を指し示している、と言うこともまた許されるであろう」(関根清三『新共同訳・旧約聖書注解2』352頁、日本キリスト教団出版局)という解釈もあります。
 
 

 イエスの言葉の史実性 

●● 「学問的作業と教会の信仰の連続」の有無は、歴史学問的作業の成果が信仰と矛盾しない結論を導くか否かで決まるものだと私は考えます。全面的に歴史学・文献学を拒否するならともかく、他の領域では文献学を全面的に受け入れたり、聖書についても写本の校訂までは承認しながら、伝承史や編集史は否定するとしたら、他人に自分の見解を表明する際に、そのアンバランスな立場(方針)の正当化が必要だと思いますが。
 

■■ 私はそういった極端な住み分けはしません。写本の校訂作業は別次元の話です。 
 また、「歴史的批判的研究方法」へ完全に依存する立場もとりません。極端な例ですが、歴史的批判的研究では神の存在は証明されません。そうすると、「学問的作業と教会の信仰の連続」はありえなくなり、信仰は成立しないというわけでしょうか? 「歴史的」にこだわり続けるのであれば、超越の存在(または超越からの働きかけ)とどこで接点をもつのかという問題が常に生じます。
 
 どちらにせよ、どこかで線を引かなければならないのですが、聖書学と名の付くものを全部受け入れるか、全部否定するか、といった極端な二者択一では解決できないと思うのです。
 
 私が聖書を学んだ本の著者には、歴史的批判的研究方法を採る神父、牧師が少なくありませんでしたが、聖書の批判的研究は、必ずしもキリスト教信仰の否定にはならないことを知りました。
 
 もちろん、教会も、われわれの信仰も、聖書学から多くの恩恵を受けているのは事実であり、そのことを感謝すべきではありますが、「歴史的批判的研究方法」への極端な依存というのは、学問の場は別としても、教会の現場ではそうではないのです。
 

●● しかし、現代において、聖書学を無視して聖書が読めるのでしょうか。例えば、イエスの歴史的発言を問題にするのであれば、「伝承史研究」に基づくべきだと思いますし、現在の形の『マタイによる福音書』が何を語っているか、といった問題設定であれば、「構造主義的聖書解釈」などが中心になると思います。
 もし、聖書学によらず、聖書の記述がすべて史実で、「イエスが言った」と書かれていれば、すべてその通りだというのであれば、学問の現実とあまりにも乖離していると言わざるをえません。
 

■■ 聖書の記述がすべて文字通りの史実だと言っているわけではありません。ただ、教会では、学説の紹介ではなく福音が説かれるべきなのではないかということです。教会は大学の神学部ではないのです。ただ、教会でも学問的な読み方が拒絶されているわけではないので、志があれば有志ですればいいと思います。
 
 また、「イエスの発言」の歴史性について言えば、キリスト教信仰は、必ずしもイエスの言葉が歴史的に真性のものであるかに依っているのではないと思います。J・エレミアスやE・シュバイツァーらの本に書いてあったと思いますが、福音書のイエスの言葉は、復活したキリストの言葉と、織り混ざるようにして福音書に書かれています。復活と聖霊の働きを信じる私にとって、以下は「神の言葉」として、等価値なのです(福音書記者、編集者の言葉=復活したキリストの言葉=史的イエスの言葉)。
 
史的イエス:「歴史上のイエス」のこと。福音書記者によってなされた神学的な装飾を取り除くことによって見出されるという。しかしながら、客観的な「史的イエス」像を明らかにした聖書学者はいない。そのため、いわゆる「歴史性を求めて描かれたイエス像」という了解のもとで使われる。キリスト論においては、この「史的イエス」と「復活したキリスト」を連続させるか、させないかで、その立場は大きく異なる。
 
 歴史的批判的研究は、聖書の言葉が福音書記者の筆なのか、最終編集者の手によるものなのか、あるいは史的イエスの言葉なのか、そのことを分析しているのであって、そのテキストが信ずるに値するのか、しないのかという判断を下しているのでは(必ずしも)ないはずです。
 
 なによりも「史的イエスの言葉でなければ信じてはいけないの?」ということです。そんな基準を、誰が決めたのでしょうか。キリスト教的に言う「信じる」とは、歴史的に確実なもの、蓋然性の高いものを「そうだね」と承認することではありません(この辺になると、神の啓示とか、霊感とか、復活とかという議論になり、文献学のレベルではなくなります。結局は、諸学の守備範囲の問題であって、これをわきまえることが大切だと思います)。
 
 また、聖書学は仮説の学問であり、キリスト教信仰を成立させる土台ではありません。近代的な聖書学が生まれる千数百年以上前からキリスト教は存在し、継続されているのです。
 
 つまり、イエスの言葉や行いの歴史的真実性の確認作業からキリスト教信仰(教会の信仰)が成立しているわけではなく、イエスをキリストとして受け入れる実存的な理由から、人はキリスト者になるのです。
 
 そして、キリスト教信仰は、文献学的な聖書研究の集積の結果出てきたものではなく(あるいは出てくる性質のものではなく)、あくまでも救いという実存的問題を含んだ「個人の立場」の問題です。つまり、イエスをどう見るか、ということです(「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」マタイ16:15)。
 教会では、この問いかけにペトロのように応答した人々によって聖書が読まれ、また説かれているのです。
 
 

[某掲示板で、その当時話題になっていた「イエス・セミナー」のことで議論が盛り上がり、保守的な信徒とそうでない人との間で議論になりました。この記事はそのやりとりを元に加筆・修正したものです(若干、議論が捩じれてしまい、その感じも残ったままです)。
 当時は、批判的な聖書学が過大に評価され、聖書を黙想する読み方や教会の教えに沿った聖書理解が、まるで無教養であるかのごとく批判される傾向がありました。そこで、歴史的批判的研究の絶対化を拒否する目的で投稿したのですが、今思えば、相手の方ももっと深い議論へいざなおうとしてくれていたのかもしれません。
 また当然のことですが、ここで言われている、われわれ信徒が「批判的な聖書学の立場を採る、採らない」云々は、結局のところ、聖書学者が行った作業の結果を信徒として受け入れるか、受け入れないか、ということでしかありません。]