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Day Dream Traveler

 日々の出力を義務付けるための一手段。 もしくは、赤い幻想と青い現実のあいだを夢見がちに歩いて行く旅行者の記録。

二人で花を育てましょう、
幾度と花は枯れるけど、
時を刻んでくれるから

二人で花を育てましょう、
あなたとわたしの気持ちを糧に、
いくつも種を結ぶから、

二人で花を育てましょう
たくさん花を育てましょう

私が消えてしまっても
あなたが寂しくないように、

あなたが消えてしまっても
私が寂しくないように

二人で花を育てましょう

二人で花を育てましょう


繭さんの詩

二人で花を育てましょう  対する返詩です。

http://ameblo.jp/tokoneko3/entry-10368337273.html

まえから、思っていた。

みんな、きぐるみなんじゃないかって。

みんな人間のキグルミ着ていて、

どっか僕の知らない所で、

キグルミ脱いで、へんてこな格好になった

おかしな生き物たちが

あ~、おつかれ~、とかいいながら、

一杯引っかけてるんじゃないかって。


何で書きたくなったのかわかんないけど、

前々から僕の中にあっった

『精神食べ物論』なんて訳わかんない

物に、ちゃんと形を与えてみたくなった。

あと、一本、それぞれの精神の形

による感じ方の違いと、認め合うということ。

他の精神の形への憧れ、

精神の形を変化させることと、

それにともなう、世界の見え方の変化。

を、書こうと思う。そんな訳で、

僕は赤を知っているは潰しちゃう。

あれは昔書いた奴を丸まるコピー

したんだけど、やっぱり、クオリティーが低い。

今のほうが、断然いい。僕、成長してる~!

ちょっとうれしい。褒めてあげたい、


よしよし、いいこいいこ。



その人が、どんな特徴や個性という内的要因を

抱えているかで、世界の見方は大きく変わります。


牛や犬が赤を認識できない、

白黒の世界を生きているのは有名な話ですし、

カエルは動きのある物しか見えません。

それぞれが、それぞれの生活圏内、あった

個性的な感覚器官を有しています。


そして、さも、牛やカエルが見ている世界を

理解しているかのように、サラリと書き流しましたが、

本当に、牛やカエルが感じているように、

世界を知るすべは僕にはありません。

完全にその人が見て、感じている世界を知ることは

不可能だと考えています。


だから、イメージの力を駆使して、


モノクロ映画のような映像なんだろうな、

真っ白なキャンバスに動く物だけが

描き出されるような感じかな、と想像することで、

相手を想い、よりよく自分の見ている世界を

知ってもらうために、人は語り表現するのだと思います。


そして、精神の形による違いは、感覚器官に

留まりません。魚は人の体温で触れると

やけどをしてしまうことがあるそうです。

水中での生活にとってベストな体躯を

持っている魚も、人肌で、やけどをしてしまう

脆い一面があるのです。


僕たちの、当たり前はつねに、そんな

ものすごく危うい所にある事を

忘れてはいけないのだと僕は思っています。


人間の精神の柔軟性は、驚くべきものがありますが、

それでも、ものすごい急激に簡単に本質的な姿を

かえることはむ難しいように思います。


馬が鳥に言いました。僕は空を飛んでみたいと、

じゃあ、崖から飛べばいいよ、羽を広げているだけで

風を簡単に捕まえられるから。と鳥は言います。


騙すつもりはありません、鳥にとっての常識は

馬にとっての非常識なだけです。

精神は肉体よりタフだと思っています。

崖から落っこちても、痛い思いをしても、

肉体的な死に至ることはありません。


心にぽっかり穴が開く、心が折れる、心が引ち切られる

何気なく使う、心の慣用句を見る限り、

精神は肉体より再生能力と、自己修復能力が強い

ように思います。


鳥と共に行動を共にしながら、鳥の精神を食べて、

新陳代謝を繰り返し、何度も崖に落ちながら、

徐々に、空を飛べるフォルムを手に入れていく。

鳥が飛んでも、人が感動することはありません。

馬がペガサスになるから人は感動するのだと思います。


自分のフォルムを変えることは、

簡単なことではありません。

けれど誰にでも出来ることだと思います。

もっと言えば、フォルムを変える事は

すごいことではあるかもしれませんが、

別にえらいことでも何でもありません。


今のフォルムを大切に、より洗練させていくの

だってとっても面白いのだと思います。

皆さんは、どんな形をいていますか、

そしてこれからどんな風になっていきたいですか?


僕はといえば、小さなお池に住むカエル

といったスタンスです。


池の底、光の届かない、混沌の闇に囲まれながら

静寂な泥の中に身を置くことの心地よさを知っています。


太陽の下で大地を踏みしめ、

颯爽と走り回る人たちを憧れを持って見つめたり、

風を切って大空を羽ばたく人たちを

うらやましく思ったりもします。

けれど、池からのほとりから眺める美しい所だけが

その世界の全てではないこともわかっています。


照りつける太陽の下、もっと、広い世界を見てみたいと

思ったりもしますが、世界は昼間だけではないですし、

月夜の晩に、昼間の喧騒にかき消されてしまう、小さな声に

耳を傾けながら、ケロケロ歌うほうが、性に合ってるかな

なんて思ったりもします。


いろんな立ち位置があって、いろんな生き物がいて

色んな世界の見方があります。

僕の見つめる世界に異を唱える人がいるからこそ、

物に影が付くように、重さが生まれ、

リアリティーを得られます。

いろんな立場の人たちがいて、

初めて世界は世界なのだと思います。


黙ってお話を聴いてくれるお花があるから

僕はケロケロ歌えるのです。


一緒に歌ってくれる人がいるから、

僕は気付き、学んでゆけるのだと思います。


支離滅裂な所も多々ある中

長文を最後まで読んでくれて本当にどうもありがとう

これからもどうぞよろしく。



精神の生態系とでもいえるような世界で

精神の形は千差万別、

そしてそれぞれの内的要因にとって

居心地がいい外的要因、場所があります。


魚が水にすむように

馬が大地を蹴るように

鷲が空を飛ぶように


この場所とは物理的な場所だけに

留まりません。人が集まる所を

場所と考えてもらえばいいかと思います。


場所はその場所に集まる人が

持っている雰囲気と

その場所にある物が作ります。

その場にある物理的な物の力が強いと、

人の雰囲気による場の形成は弱まります。

逆に物理的な影響が少ないところは、

人の雰囲気による場の形成が強くなります。

いろんなコンセプトの喫茶店やテーマパーク、

に対して、無機質な空間、(集会場とか教室かな?)

ネット上のコミュニティーを考えればいいでしょうか?


一つの場に人集まり、コミュニケーションが

始まるということは、そこに生態系が

生まれるということです。お互いを

外的要因として認識し、自分の

内的要因と形を合わせながら、

その生態系での自分の形を確立していきます。


いつでも同じ形であったら楽なのでしょうけど、

家族とともにあるときの自分の形と

仕事をしている時の自分の形が違う場合もありますね。

状況によって、蛸やカメレオンみたいに

姿をコロコロ変える人もいるかもしれませんし、

自分の形をあくまでも貫き通す人もいるかもしれません。

その柔軟性ゆえ、人間はどんな場所にでも

行くことができ、誰とでも、どんな物とでも

コミュニケーションを結ぶことが出来ますが、

内的要因にとって、気持ちよかったり、

苦痛であったり、ということはあると思います。


そんなわけで、

類は友を呼ぶといいますか、

似たような精神の形のものが集まったり

同じような生活圏内の生き物が集まるのは

当然のように感じます。


そこは、綺麗なお花畑でしょうか

大海原なのでしょうか、

熱帯雨林のジャングルなのでしょうか


それでも、現実の世界は

いつでも、同じような生活圏内の生き物たちが

それぞれの、居心地のいい場所を求めて

集まることが出来るわけではないみたいです。

学校の教室なんてその典型だと思います。


新学期に見知らぬ物同士が、一つの密閉された

空間に入れられて、お互いを探りあいながら、

自己の形を確立させていく。


クラス全員の内的要因(機能や個性や特徴)が

がっちりかみ合って、しっかりと循環する

生態系が確立されれば、みんながとても

居心地が良いでしょうけど、生態系のバランスが

崩れていると、クラスはなかなか一つに

まとまらないし、生態系のどこかに

歪が生じるようにも感じます。


教室の中の役割も、それぞれの、

内的要因も大きく左右しますけど

言ったもん勝ち、って言うか表現したもん勝ち

な所があるように思います。自分が表現しないうちに

中の良い友達や、先生なんかの影響で、

クラスの中の役割を勝手に自分の内的要因とは違う

物にされてしまうと、結構辛いかもしれません。


また、生態系の循環の中にいないということは

コミュニケーションの輪の中にないということです。

その場合、食べて、食べられる関係にないわけですから

飢えて弱ってしまいます。


とにもかくにも、栄養補給をしなければならないのですが、

そんな時に、飢えて、弱ってそうな物しか食べられない

ハイエナみたいな、かわいそうな人たちがやってきたりします。

ちょっかい、とか呼ばれる餌をチラつかせて、食いつくのを

まってたりしています。


コミュニケーションの基本は

食べたら、食べられます。

食べなかったら、食べられません。


自分が嫌な思いまでして、

栄養を補給させてもらう必要はありません。


自ら栄養を生み出して、誰に見られていなくても

誰かのために、綺麗な花を咲かせるような、

強く生きられる、一人でいられる人もいます。


けれど、


栄養を補給するのに教室や一つのコミュニティーに

執着する必要は全然ありません。


必ずあなたの栄養を心から必要とし、あなたが

必要とする、人とコミュニティーがあるので、

自分の個性や特性や特徴にあった、

居心地のいい場所を自分の力で探しましょう。


人間は未発達の状態で生まれます、

そして今自分が置かれている

環境の先達者である母親から、

選択圧に対して、真似て、学んで

もっとも生存率の高い精神の形を

捕食し自分の姿を整えていきます。


初めて自分の内側、内的要因が

形作られるといっていいかもしれません。


その中でも、人間の認識をつかさどる

言語の獲得は重要なのではないかと思います。

まさに母国語(mother tongue)と言われるように

母から子へと受け継がれる、言語という

認識方法は、世界の見方を大きく左右します。


たとえば、Redという単語一つである物の見え方を

決定することが出来る環境もあれば、

赤、朱、紅、茜、緋色など多くの階調を

識別しなければならない、環境もあります。

見えている世界を、、細分化し

識別して理解してゆくために言葉は

とても重要な役割を果たしていると思います。


牛が赤を認識できないように、

カエルが動いている物しか認識できないように、

その人が現在獲得している精神の形の

ありようでたとえ、

同じ世界で同じ空をみていても、

違う感覚に至ることもあるのだとおもっています。


精神の捕食は対人間だけに留まりません、

本、映画、音楽、ゲームあらゆるメディアは

食べ物であるといえます。

カンフー映画を見て、ちょっと強くなった

ような気持ちで、映画館から出てくるのも

精神を捕食し、その影響を体現している

ような物だと思います。


ただ、いくら精神が柔軟で、

環境適応能力に優れた特性を

持っているといっても、内面の特性を

すぐに変えることは出来ません。

それは新陳代謝と同じで、同じような

精神状態を毎日獲得することで、

徐々に入れ替わり、

変化していく物と考えます。


子供のほうが環境適応能力が

優れているのは、生きた時間が短いから

獲得している精神がまだ小さく、代謝によって

の入れ代わりが早いからだと思います。

逆に大人が変化に適応しずらいのは、

その逆であることが理由の

一端にあると思います。


話がそれました。

日々様々な精神を選択しながら捕食し捕食され

代謝を繰り返し成長してゆく人間の精神は

精神生態系ともよべるその関係性の中にあり

そのエネルギーを流転させてそこにある

のだとおもいます。